京成松戸線が「異様にクネクネする」理由とは!?

「京成に松戸線なんかあった?」と疑問に思う人もいるかもしれませんが、新京成電鉄は、2025年4月1日、京成電鉄に吸収合併され、新京成線は、京成松戸線になったのです。そのため、まだまだ無名ながら目下、注目のクネクネ路線ということに。なぜクネクネなのかは、ユニークな生い立ちにあります。

JR武蔵野線と東武野田線に比べて異様にクネクネ

松戸駅(千葉県松戸市)から大きく東に弧を描きながら南にクネクネと進み、本線・千葉線と合流する京成津田沼駅(千葉県習志野市)を目指す京成松戸線。
都市部を走る列車としては少し異様なほどクネクネしています。

西側を南北に貫くJR武蔵野線と東武野田線が直線コースが多いのに対し、そのクネクネ度は鉄道としては少し「常軌を逸した」感じ。
山岳地帯で尾根の末端でカーブを描いたり、渓谷沿いに走るわけでもなく、平野部を走っています。

とくにゴールの習志野市では、カーブを描いて新津田沼駅(JR津田沼駅に隣接)、そしてさらにS字を描いて総武本線を横切って京成津田沼駅に入っています。

どうしてこんな「クネ鉄」が生まれたのでしょう。
新京成電鉄が誕生したのは、昭和21年10月23日。
新津田沼駅(初代) 〜薬園台駅が開業したのが昭和22年12月27日なので、会社設立から路線開業まで、わずか1年余ということに。

会社設立後、すぐに開業できたのは、戦前に線路がクネクネと敷設されていたから。
戦地における鉄道の建設、そして破壊活動を担った陸軍鉄道連隊が、演習として敷設した鉄道があったのです。

千葉県内では、明治39年、津田沼駅〜習志野俘虜収容所跡地に、陸軍鉄道連隊(当時はまだ連隊ではなく、鉄道大隊でした)が軽便鉄道を建設。
大正7年8月1日、千葉郡津田沼町(現・習志野市、千葉工業大学津田沼キャンパス一帯)に鉄道第二連隊が発足し、関東大震災で鉄道復旧作業に従事したり、中国大陸で軍用鉄道の運営を行なっていますが、明治44年に津田沼〜千葉に演習線、そして昭和の初めまでに津田沼〜松戸に演習線を敷設しています。
さらに北総鉄道(現・東武野田線)や小湊鐵道の敷設も行なっていますが、このこともあまり知られていません。

陸軍の演習線は戦後、西武の買収計画も

津田沼〜松戸の演習線は、昭和2年〜昭和7年に敷設された路線。
他の路線と明らかに異なるのは、敷設後に貨物や旅客列車を走らせるという構想がなく、あくまでも演習が目的で建設されたこと。
線路としての距離を稼ぐため(鉄道連隊につき45kmの路線建設が義務付けられていました)、さらには鉄道を敷く技術力の向上、運転技術の向上を図るために敢えて訓練目的でカーブを多くしているのです。

カーブが多い理由は、単なる敷設の技術向上というだけでなく、空爆や機銃掃射を避けるために湾曲部分を増やしたという可能性も。
橋やトンネルを避け、地形に沿って線路を敷設するほうが、低予算で済むというメリットもありました。

今では通勤電車に揺られながら、あるいは通学の車中で、「カーブが多くて揺れるなあ」と実感する京成松戸線。
クネクネの理由は、陸軍の鉄道連隊が敷設した演習線を、戦後に旅客用に転用したという珍しい路線だったから(西武鉄道も松戸線の資材などを目的に、払下げを申請していました)。

新京成の誕生は、、実は地元と密接なつながりがあり、京成電鉄に入社した元鉄道連隊関係者が、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に積極的に旅客運用を働きかけて実現(GHQの認可を受けて実現)。

それでも開業直前には、日本を占領するGHQが軍用線の復活を懸念し、待ったをかけたことも。
戦前の陸軍の演習線を前身に、当初は、西武に対応する防衛策という側面もあって誕生した路線ですが、沿線の住宅開発もあって、飛躍的に発展、それがまだ耳慣れない、京成松戸線の大いなる歴史です。

京成松戸線が「異様にクネクネする」理由とは!?
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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