吉備津神社
備中と備前との国境、「吉備の中山」(きびのなかやま)を御神体とする吉備国総鎮守として創建された古社が岡山市北区吉備津に鎮座する吉備津神社。7世紀後半、吉備国が3分割された後に備中国一之宮として歴代の国司に崇められました。…
備中と備前との国境、「吉備の中山」(きびのなかやま)を御神体とする吉備国総鎮守として創建された古社が岡山市北区吉備津に鎮座する吉備津神社。7世紀後半、吉備国が3分割された後に備中国一之宮として歴代の国司に崇められました。…
岡山市にある6世紀末(古墳時代後期〜終末期)に築造されたと推測される円墳が牟佐大塚古墳(むさおおつかこふん)。国の史跡に指定され、箭田大塚古墳(やたおおつかこふん)、こうもり塚古墳と並んで、岡山県三大巨石墳のひとつ。裾部…
平安時代、国庁に赴任した国司が国中の神社を巡る手間を省くため、国府の近くに造られたのが、総社。古代、備中国府が置かれたときに、備中の主な神社、324社の神を合祀して創建されたのが総社市の備中総社宮です。本殿は昭和54年の…
岡山県総社市の吉備路風土記の丘にある全長約100mの前方後円墳がこうもり塚古墳(国の史跡)。松林に覆われた後円部には、巨大な石を用いた全長19.4mの横穴式石室があり、その規模は全国でも最大。箭田大塚古墳、牟佐大塚古墳と…
岡山県総社市、備中国分寺(備中国分寺の後継寺院)と礎石などの残る備中国分寺跡の東に位置する古代の寺院跡が備中国分尼寺跡。天平13年(741年)、聖武天皇の詔(みことのり)により、全国に建立された国分尼寺(法華滅罪之寺)の…
天平13年(741年)に聖武天皇の詔(みことのり)で諸国に一寺ずつ造られた国分寺(金光明四天王護国之寺)のひとつで備中国(びっちゅうのくに=現在の岡山県西部)に建立されたのが備中国分寺。岡山県総社市にある後継寺院、備中国…
岡山県総社市にある吉備路風土記の丘の一角にあり、岡山県内唯一の五重塔がある古刹が備中国分寺。前身は奈良時代、聖武天皇の詔で建てられた国分寺のひとつですが、南北朝時代に焼失。当初の国分寺は、国分寺境内の南に南門、中門、大井…
岡山県真庭市の吉備高原北端にある鍾乳洞が備中鐘乳穴(びっちゅうかなちあな)。総延長約800mのうち、約300mが観光洞として公開されています。文献に残る鍾乳洞としては日本最古で、備中国から年60斤の鍾乳石を朝廷への貢ぎ物…
岡山藩主・池田光政(いけだみつまさ)により開設された日本最古の庶民学校が岡山県備前市にある閑谷学校(しずたにがっこう)。庶民のための学校として、領内はもとより他藩の者にも入学を許可、頼山陽らも度々訪れたとか。旧閑谷学校と…
北八ヶ岳の東麓に広がる長野県佐久穂町、八千穂高原。その一角に200haに50万本の白樺林があり、近くには28haの八千穂高原自然園、八千穂レイクがあります。八千穂高原の白樺林は「日本一の白樺群生地」とPR。初夏にはヤマツ…
八ヶ岳の高原地帯を走り抜ける八ヶ岳高原ライン沿いにあるのどかな公園が山梨県立まきば公園。山梨県立八ヶ岳牧場の一部を公開したふれあい牧場で、10haもの草原に、めん羊や牛が放牧され、牧歌的な風景が広がっています。敷地内には…
八ヶ岳の主峰、赤岳(標高2899.2m)から派生した真教寺尾根の末端にある、標高1542.4mのピークが、美森山(うつくしもりやま/美し森山、美し森とも)。一帯は、レンゲツツジ、サラサドウダン、ヤマツツジの群落地で、6月…
八ヶ岳高原ラインと通称される山梨県道・長野県道11号(北杜富士見線)。中央自動車道小淵沢ICと清里高原を結び、八ヶ岳の高原地帯を走る道路で、八ヶ岳横断道、八ヶ岳公園道路、八ヶ岳高原道路という名もあります。かつての有料道路…
標高1528.8m、八ヶ岳から派生する尾根末端の小突起が、天女山。ちょうど大泉高原の最高所にあたります。八ヶ岳高原ラインから天女山山頂直下まで車で入ることができるので手軽に絶景を得ることができます。山頂からは南アルプス、…
大泉高原と清里高原を隔てる大きな谷が川俣東沢渓谷。この渓谷にかかる東沢大橋(全長90m)は、八ヶ岳高原ライン山梨・長野県道11号(北杜富士見線)のベストビューポイントで山梨県有数の新緑・紅葉の名所。赤い橋駐車場展望台(東…
鎌倉七口の一つに数えられるのが名越切通(なごえきりどおし)で、幕府のあった鎌倉と三浦半島側(逗子市小坪)を結ぶ街道の切通し。鎌倉時代編纂の歴史書『吾妻鏡』にも名越坂という名で登場する、鎌倉に入る歴史ある道です。現在は神奈…
明治37年4月1日に開業した江ノ島電鉄の駅が極楽寺駅。駅名は近くの極楽寺、極楽寺坂切通に由来します。明治40年に江之島電氣鐵道の極楽寺隧道が完成し、明治40年8月16日、極楽寺から鎌倉町の大町(現在廃止)まで延伸していま…
鎌倉七口のうちもっとも由比ヶ浜寄りにあるのが極楽寺坂切通。鎌倉時代に鎌倉七口の呼称はなく、江戸時代初期からの呼び名。それでも極楽寺坂切通は、元弘3年(1333年)、新田義貞鎌倉侵攻の際の激戦地のひとつになっています。極楽…