山形の紅花のルーツは千葉県長南町!?

千葉県長南町の長福寿寺によれば、「紅花の里と呼ばれる山形県の紅花も、実は房総がルーツなんです」。
本当なのでしょうか!? だとすれば、どんな歴史的な背景があるのでしょうか。

紅花咲く長南町の長福寿寺住職・今井さんに話を聞いてみた

まずは、第56世住職・今井長秀さんにその辺りを質問してみると、
「菅原道真の子、菅原滋殖(すがわらのしげいく)が河原郷三途台(現・長南町三途台)に移り住み長南次郎と称しました。その時持参し、後に房総の特産品となったのが紅花なのです」。
(関東ブロック定例記者発表で取材)

長南氏の子孫で構成される全国長南会という会まで組織されています。

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紅花咲く長南町の古刹・長福寿寺
 

長南氏の子孫から学ぶ上総国の紅花のルーツ

その長南会によれば、
昌泰4年(901年)、菅原滋殖(幼名・善智麿/道真の九男)が3歳の時、父・菅原道真は左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、太宰府に左遷。以降、滋殖は、母方の伴氏のもとで育てられます。
後、兄の上総介(上総国の次官)・菅原淑茂(道真の八男・すがわらよししげ)に仕え、従五位下、昇殿の身に出世。
当時の滋殖の領地は河家郷(長南町給田付近)だったと推測されています。

承平7年(937年)、退官して土着、河原郷三途台周辺(現在の千葉県長南町)を開墾、地元の豪族の娘・麻津廼と結婚し、長南次郎善智麿と称したのだとか。

長南町の鎮守といわれる熊野神社は、承平2年(932年)に長南次郎滋殖の創建と伝えられます。

さてさて、紅花ですが、上総国の国府(国庁は現在の市原市にあったと推測されています)勤めを辞め、紅花を栽培して「紅餅」を作り、都に納め、「長南紅」として有名になったのだとか。

天徳4年(960年)頃、長南次郎滋殖没。

紅花は飛鳥時代にシルクロードを経て渡来

紅花は、原産地のエジプト・地中海沿岸からシルクロードを経て、飛鳥時代に渡来。
当初は消費地である奈良・京の周辺で栽培されていました。

出羽国(山形県)の最上川流域で栽培されるようになったのは、室町時代末期。
江戸時代には最上川の舟運と、北前船を使って京へと運ばれ、出羽国の一大産業にまで発展します。

享保年間(1716年〜1736年)の記録によれば、全国の出荷量は1020駄(1駄は32貫=120kg)で、出羽最上はそのうち415駄を出荷していました。江戸時代には「最上紅花」と「阿波の藍玉」が東西の染料横綱だったというわけです。

古代から中世にかけて紅花が栽培されていたのは、伊賀・相模・上総の3ヶ国。
北前船が盛んになる近世以前は、最上からは京は遠い土地だったのです。

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長南町の町おこしで開発された「紅花アイス」
 

山形新聞の記事にあった船木音羽氏説

山形新聞の過去の取材によれば、
千葉県長南町在住の船木音羽氏の説を紹介し、
「室町期の中頃、康正年間 (1455年~) に、上総国の長南氏が、関東管領側に攻略された際、落ち延びた一族の人々が、長野方面から遠く出羽国に逃れて住みついたが、たまたま持っていた僅かの紅花の種を園地に蒔いて育て、望郷の念を紛らわしていたのが源流となり、やがて最上紅花の生産に発展したのである」(山形新聞昭和53年7月24日付)
と記しています。

京周辺で栽培された紅花は、菅原道真の子が上総に伝え、その一族が出羽へと伝えた。
さらに近世以降は北前船の輸送力で、上総の紅花を出羽が凌駕した、こう考えるのが長南ルーツ説。

今も、昔を偲んで、千葉県長南町の長福寿寺では紅花が栽培され、紅花まつりが開催されています。

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長福寿寺の授与品には「紅花守り」も

 

千葉県長南町の長福寿寺で関東随一『第32回紅花フェスティバル』

2016年5月23日

 

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