【お城の基礎知識】 「望楼型天守」と「層塔型天守」の違いとは!? 

望楼型天守・層塔型天守

往時の天守が現存し、国宝、国の重要文化財に指定されるのは12天守。それ以外の多くの天守は、コンクリートや木造でおもに外観を復元した観光用の復興天守です。そんな天守ですが、実は天守が築かれた初期スタイルの「望楼型天守」と、天守が普及した後の「層塔型天守」に大別できます。その違いとは!?

望楼型天守

屋根の上に物見台を載せたスタイルで「シンボルタワー」の役割も

安土城
安土城天守

望楼は、英訳すればwatchtower、あるいはgazeboで、展望タワー、見晴らしのいい建物の意。
物見、物見台と言い換えることができます。
「望楼型天守」は1階もしくは2階建ての大きな入母屋造り(いりもやづくり)、入母屋破風(いりもやはふ)の上に、1階建てから3階建てぐらいの大きさの望楼(ぼうろう)を載せたもの。

望楼型天守の初登場は、織田信長がこだわり抜いた安土城で、5重6階のタワーだったことがわかっています。
ルイス・フロイス『日本史』に、「中心には、彼らがテンシュと呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である」と、まさに天守が塔であると見抜いています。
安土城の天守台(天主台)は、不等辺八角形をしていますが、望楼型天守の特徴として、四角形だけでないユニークな塔が建てられるというメリットがあります。
国宝に指定される犬山城、姫路城の天守台も台形で、やはり初期の望楼型天守と代表格です。

近世の天守は、あくまでシンボルタワーで、居住する空間ではありませんでしたが、織田信長が建てた安土城の天守は、下層で信長が暮らし、政務を司り、上層で周囲を眺める展望機能付きの居館というまさに「望楼型天守」のパイオニアでした。

層塔型天守

藤堂高虎が生み出した地震や台風に強い堅牢な天守

江戸城天守
江戸城天守

天下分け目の関ヶ原の戦い後に登場したまさに近世型の天守。
徳川政権により国内統一が果たされ、城主の威厳を示すというシンボルタワーとしての役割も薄れていた時代です。

慶長9年(1604年)、築城の名手といわれる藤堂高虎(とうどうたかとら)が築いた今治城(愛媛県今治市)が層塔型天守のデビュー作。
藤堂高虎は、豊臣秀長に仕えた豊臣恩顧の家臣ですが、秀吉の聚楽第(じゅらくだい)邸内に徳川家康の邸宅をつくる際、防御力が弱いと判断し、勝手に設計を変更、自腹を切って建築しています。
このことを知った家康はその後、藤堂高虎を重用、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で東軍に与したため、宇和島8万石の安堵はもちろん、新たに今治12万石が加増されたのです。

藤堂高虎は、屋根の上に物見を載せた望楼型は、地震や台風に弱いという弱点を見抜いており、構造上も堅牢な層塔型天守を築いたのです。
長方形の土台(天守台)の上に、規格化された部材を用いて上層まで組み上げるタイプで、江戸城の天下普請(てんかぶしん)の際にも藤堂高虎は代表格となって参加したため、その後の天守の大勢はこの層塔型となりました。

1階から同形の建物をサイズを小さくしながら規則的に積み上げていくというシンプルな構造で、入母屋破風は、最上階の屋根に採用されるのみ。
破風は装飾的な千鳥破風(ちどりはふ=三角形をした破風)や唐破風(からはふ=寺院などにも使われる優美な曲線を持つ破風)を多用し、デザイン的なアクセントを付けています。

入母屋破風と千鳥破風は三角の破風ということで似ていますが、入母屋破風は屋根の縁、軒先(のきさき)まで続いているので区別ができます。

こうした層塔型天守は、強固な四角形の土台が必要であるため、石垣構築技術の発達が書かせませんでしたが、江戸時代初期には石垣構築の技術も進歩し、藤堂高虎のアイデアを支えることができました。

層塔型天守の最上階も「物見」と称されたので、展望機能を有していたことは間違いありません。
ただし、近世城郭では城主(藩主)は、二の丸などに築かれた御殿を政庁にし、そこで暮らしていたので、実際に天守に上ることは稀だったと思われます。

【お城の基礎知識】 「望楼型天守」と「層塔型天守」の違いとは!? 
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