鳥取城

天文6年(1545年)、因幡国守護・山名誠通(やまなのぶみち)が千代川を見おろす標高263.0mの久松山(きゅうしょうざん)に築いた城が鳥取城。久松山は花崗岩からなる急峻な山で天然の要害でした。戦国時代には秀吉軍の過酷な兵糧攻めを受けたことでも有名。藩政時代には池田氏12代の居城となりました。国の史跡で、日本100名城。

池田氏12代の居城、鳥取城に登城しよう!

鳥取城に唯一残る城門、中仕切門
丸の内跡から二の丸跡へ通じる中仕切門
二の丸、菱櫓跡の石垣

1580(天正8)年には、天下布武(天下統一)を目ざす信長の命を受けた羽柴秀吉軍の攻撃を受け、3ヶ月の過酷な籠城戦(「鳥取の飢え殺し」)を展開。
その結果、和議により降伏し織田方となりました。
その後、秀吉家臣の宮部継潤が入城し、信長の山陰攻略の拠点となっています。

天下分け目の関ヶ原の合戦後、近江・水口城から入った池田長吉(いけだながよし/父は池田恒興)によって近世的な城郭に大改築。
もともと尾張国犬山城で生まれた池田長吉は、京の大仏の造営奉行を務めて、伏見城の普請も担当するなど、秀吉配下で活躍。関ヶ原の合戦では東軍に与して戦功をあげ、関ヶ原合戦直後の慶長5年11月に因幡国で4郡・6万石と鳥取城を与えられ、鳥取藩に加増移封されています。
1617(元和3)年、姫路藩主だった池田光政は幼少を理由に因幡鳥取32万5000石に転封。
さらに1632(寛永9)年には岡山城から池田光仲が入城し(光仲が3歳の幼少のため山陽道の要所である岡山を治め難いとして鳥取へ。
池田光政は岡山藩へ移封)、因幡・伯耆両国を領有しています。
初代藩主・池田光仲は、徳川家康の曾孫(父・池田忠雄の母が徳川家康の次女・督姫)にあたるため外様大名ながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格があった点にも注目を。
以降、池田家の支配が12代続いて明治維新を迎えています。

二の丸から鳥取城下を一望に
山上の丸の北西隅に位置する天守櫓跡(ここに2層の櫓が)

二の丸から山頂にある山上の丸までは、徒歩30分

明治維新後、陸軍の管轄となり、すべての建物が破却。
現在は、山上の丸の天守台、中腹の天球丸、山麓の二ノ丸などに石垣が残るほか、城門が復元されていて往時を偲ぶことができます。
山麓の二の丸から山頂にある山上の丸までは、徒歩30分。往時の天守は山上の丸の北西隅にありましたが、1692(元禄5)年に落雷で焼失し、以後再建されていません。
藩政時代の藩主の居館は二の丸にあり、日常生活と政務は山麓の二の丸で行なっていました。
藩政時代の大手道は、二の丸裏手の八幡神社から登っていく登城ルート「中坂」です。

鳥取の飢え殺し
戦国時代、城主・吉川経家(きっかわつねいえ)のときに織田氏と毛利氏の対立から秀吉軍2万の約100日におよぶ兵糧攻めを受けたことでも有名。「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という悲惨な状況のなか吉川経家は開城し切腹しました。秀吉が構築した陣跡である太閤ヶ平(たいこうがなる)は、鳥取城本丸から1.4km東に位置する帝釈山頂にありますが、鳥取城跡とあわせて国の史跡に指定されています。また、鳥取城正面入口に吉川経家の銅像(下の画像)が建立されています。


鳥取城
名称 鳥取城/とっとりじょう
所在地 鳥取県鳥取市東町
関連HP 鳥取市観光コンベンション協会公式ホームページ
電車・バスで JR鳥取駅から100円バスくる梨緑コースで9分、仁風閣・県立博物館下車、徒歩5分。土・日曜、祝日はループ麒麟獅子バス砂丘コースで8分、鳥取城跡下車、徒歩2分で入口
ドライブで 鳥取自動車道鳥取ICから約6.5km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用/土・日曜、祝日は鳥取県庁駐車場(地上114台・地下79台/無料)も利用可能
問い合わせ 鳥取市観光案内所 TEL:0857-22-3318
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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