若桜鬼ヶ城

若桜鬼ヶ城

鳥取県八頭郡若桜町(わかさちょう)にある山城が、若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう)。鳥取市にある鳥取城、鹿野城(しかのじょう)とともに因幡三名城に数えられています。標高446.0mの鶴尾山山頂が本丸で、比高は230mほど。国の史跡に指定されるほか、続日本100名城にも選定されています。

本丸からは若桜の町を眼下に

正治2年(1200年)頃、駿河国安倍郡矢部村(現・静岡市清水区矢部町)の地頭、矢部暉種(やべあきたね)が梶原景時一族を討った恩賞で因幡国八東郡山田村外20ヶ村を手に入れ、居館として築城したのが若桜鬼ヶ城。
戦国時代末期まで矢部氏の居城となりますが、天正3年(1575年)、尼子三傑のひとり・山中幸盛(やまなかゆきもり=山中鹿介)の謀略によって落城し、さらに吉川元春(きっかわもとはる)の攻撃を受け、山中幸盛は若桜鬼ヶ城を放棄しています。

羽柴秀吉率いる織田軍の因幡攻めでは、若桜鬼ヶ城が拠点となり、天正9年(1581年)の鳥取城攻めの後、木下重堅(きのしたしげかた)が入城、因幡八東郡と智頭郡の2郡、若桜2万石を領有しています。
木下重堅は、小田原征伐に従軍、文禄の役に出陣し、朝鮮へ渡海するなど豊臣秀吉の配下として活躍。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して、最後は天王寺で切腹。

その後、関ヶ原の戦いで東軍に内通していた山崎家盛(やまざきいえもり)が3万石で入封しますが、家盛の子、山崎家治は元和3年(1617年)、備中国成羽に転封し、因幡国全体を、鳥取藩主・池田長幸(いけだながよし)が領有することとなり、元和の一国一城令で廃城に。

北麓のふれあい広場側の登山口から徒歩で登る古城ルートを利用すれば、徒歩30分〜40分で本丸・天守台。
雨後は山道が滑りやすいのでご注意を。
車で三倉集落から林道を使って山上の駐車場まで到達すれば、徒歩15分で本丸・天守台です。
鹿対策の電気柵が設けられているので、注意が必要(ハンドルフックを外して入城)。

地元で産する石材を用いた石垣によって、虎口(こぐち)や天守台が築かれていますが、これは戦国時代以降に築かれたもの。

若桜鬼ヶ城
若桜鬼ヶ城
名称 若桜鬼ヶ城/わかさおにがじょう
所在地 鳥取県八頭郡若桜町三倉
関連HP 若桜町観光協会公式ホームページ
電車・バスで 若桜鉄道若桜駅からタクシーで10分
ドライブで 鳥取自動車道鳥取ICから約31km
駐車場 20台/無料
問い合わせ 若桜町教育委員会 TEL:0858-82-2213
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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