醍醐寺三宝院
豊臣秀吉の「醍醐の花見」で知られる醍醐寺(だいごじ)の塔頭(たっちゅう)で、永久3年(1115年)、醍醐寺第14世座主勝覚(しょうがく)僧正が創建したのが現在の三宝院(当時は金剛輪院)。応仁の乱の戦火で焼失しますが、慶長…
豊臣秀吉の「醍醐の花見」で知られる醍醐寺(だいごじ)の塔頭(たっちゅう)で、永久3年(1115年)、醍醐寺第14世座主勝覚(しょうがく)僧正が創建したのが現在の三宝院(当時は金剛輪院)。応仁の乱の戦火で焼失しますが、慶長…
南禅寺大方丈前の庭園は江戸時代初期の代表的枯山水庭園。小堀遠州(こぼりえんしゅう)作の名庭で、虎の子渡しの庭と呼ばれています。砂と石と松で構成された庭は、石で虎を表し、白砂で表現した河を渡る姿となっていることがその名の由…
金地院(こんちいん)は、南禅寺の塔頭寺院のひとつで、応永年間(1394年〜1428年)に足利義持(あしかがよしもち)が洛北の鷹ヶ峯(たかがみね)に創建。慶長10年(1605年)頃に以心崇伝(いしんすうでん)が南禅寺塔頭と…
南禅寺の塔頭(たっちゅう)寺院のひとつで、亀山天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮・禅林寺殿(ぜんりんじどの)の天上宮の跡地に建ち、天皇を祀るため別院とされているのが南禅院。天上宮の別名が南禅院でまさに天上宮の後身…
明治39年の三溪園の開園時に、梅の木を小向(川崎)・杉田(横浜)・蒲田(東京)といった近隣の名所から集めて築いたのが三溪園の梅林。当時の新聞に「著名の梅園を一邸に集めたるは、門戸を開きて万衆の来たり観るに任せんが為なり」…
文禄3年2月27日(1594年4月17日)の太閤秀吉の吉野での花見は、吉水院(現在の吉水神社)が本陣となりました。花見に際して豊臣秀吉自らが基本設計を行なったと伝えられる桃山式の庭園が、吉水神社の庭園。神仙思想による「不…
成田山新勝寺の本堂から徒歩5分ほどの裏山に広がる新勝寺の大庭園が成田山公園。約16万5000平方メートルにもおよぶ敷地には、放生(ほうじょう=捕らえた魚や鳥を放す)の場を表わす龍智、竜樹、文殊の3つの池が点在、池畔には浮…
知恩院の一角にある友禅苑は、友禅染の始祖・宮崎友禅(みやざきゆうぜん)の生誕300年を記念して、昭和29年に改修造園された庭園。宮崎友禅が知恩院の近くに暮らし、扇面絵師として活躍したという歴史に因んで造園されたもの。
国の重要文化財に指定された大方丈(おおほうじょう)と小方丈(こほうじょう)は残念ながらともに内部は非公開。その横にある京都市の名勝に指定された知恩院の方丈庭園は、見学が可能です。受付は法然上人御堂の奥にあります。
かつての小倉城主、小笠原氏が茶の湯や能を楽しみ、客をもてなした下屋敷(したやしき)の跡を復元し、大名庭園と書院を再現した北九州市立の文化施設が小倉城庭園。「小笠原流礼法」の宗家でもある旗本・小笠原家も一族で、全国的にも珍…
苔寺として知られる臨済宗の名刹、西芳寺。寺伝では、聖徳太子の別荘であったものを、奈良時代に行基が寺にし、その後、空海、法然などが入寺したと伝わります。当時は西方寺と称していたのだとか。世界遺産「古都京都の文化財」の構成資…
室町幕府8代将軍・足利義政が、祖父・足利義満の北山殿(金閣寺)にならって1482(文明14)年に建てた山荘、東山殿が前身の名刹、慈照寺(銀閣寺)。義政の死後、遺言によって臨済宗相国寺派の寺院となったもの。1489(長亭3…
嵐山の渡月橋の北、広大な寺地を誇るのが臨済宗天竜寺派の総本山、天龍寺。1339年(延元4)、足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇供養のため、夢窓国師を開山とし後嵯峨天皇の仙洞御所、亀山上皇が仮御所を禅寺に改めた名刹。…
対馬に築かれた宋氏の居城金石城の大名庭園。旧金石城庭園は、かつての厳原中学校の校庭を発掘調査した結果、中島を擁する大規模な泉水が造営されていたことが判明。それを大規模な発掘調査を行なって江戸時代の大名庭園を蘇らせたもので…
徳大寺家の別荘だったものを1450(宝徳2)年、細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天和尚を開山とし禅寺に改めたのが龍安寺。応仁の乱の際に焼失後、勝元の子・政元が再興。1499(明応8)年に方丈が再建され、このとき方丈庭園とし…
京都府京都市左京区鹿ケ谷、哲学の道近くにある法然上人ゆかりの手入れされた風雅な庭のある寺が法然院。1206(元久3)年、浄土宗の開祖・法然が、弟子の住蓮、安楽とともに開いた念仏道場の旧跡と伝えられ、春秋には伽藍内の特別公…
江戸初期の文人・石川丈山(いしかわじょうざん)が、1641(寛永18)年に造営、31年間隠棲した草庵の跡が詩仙堂。現在は曹洞宗の寺で、正式名は六六山詩仙堂丈山寺です。必見は名の由来となる「詩仙の間」。狩野探幽による中国の…
昭和42年に平城宮東張出し部の南東隅に発見された庭園跡。『続日本紀』に記される平城宮の「東院」にあたることから東院庭園と名付けられました。発掘調査の結果、東西80m×南北100mの敷地のなかに洲浜敷の池が設けられ、その周…