長谷川酒造
新潟県長岡市南郊の摂田屋(せったや)地区、諏訪神社近くにある酒蔵が長谷川酒造。創業は江戸時代末期の天保13年(1842年)。先祖は戦国時代に信州から当地に移り住んで、開墾。古くは「信州屋」(屋号)と呼ばれ、初代の重吉が天…
新潟県長岡市南郊の摂田屋(せったや)地区、諏訪神社近くにある酒蔵が長谷川酒造。創業は江戸時代末期の天保13年(1842年)。先祖は戦国時代に信州から当地に移り住んで、開墾。古くは「信州屋」(屋号)と呼ばれ、初代の重吉が天…
新潟県長岡市の南の郊外にある摂田屋地区。その市街を貫く旧三国街道の入口に位置し、レンガ造りの煙突と大きなしょうゆの木桶がひと際目を引く「越のむらさき」の古い社屋と、まるで一体化したようにたたずむのが、この辻地蔵(道しるべ…
新潟県長岡市摂田屋にある老舗の酒蔵が吉乃川。敷地との間に、「殿様街道」の別名もある旧三国街道が貫いています。その歴史は古く、戦国時代、天文17年(1548年)の創業(当時は若松屋)というから、当地が「醸造のまち」になるず…
「醸造のまち」として名高い新潟県長岡市摂田屋(せったや)地区。旧三国街道沿いの入口近くにある、赤い鳥居とお狐様が目印のパワースポットが竹駒稲荷です。もとは日本三大稲荷のひとつともいわれる(日本三大稲荷は諸説あり定かであり…
新潟県長岡市街の中心部から南に約4kmほど、旧三国街道沿いにある摂田屋(せったや)地区。江戸時代から明治、大正期にかけての古い町並みと、味噌・醤油蔵、酒蔵などが並び、昔町の風情を残しています。幕末に北越戊辰戦争時の長岡藩…
新潟県長岡市の南郊、摂田屋(せったや)地区にある醤油醸造場が「越のむらさき」で、創業は江戸時代後期の天保2年(1831年)。旧三国街道の辻場(分岐)に位置し、「醸造のまち」摂田屋を象徴する景観を有していて、被写体としても…
旧三国街道の通る新潟県長岡市摂田屋(せったや)地区、北越戊辰戦争時に長岡藩の本陣があった光福寺近くにある醸造場が星野本店。初代の星野三五衛門は、江戸・上野で修業を積んだ後、江戸時代末期の弘化3年(1846年)、当地で創業…
新潟県長岡市中心部から南に約4km、摂田屋地区にある寺が光福寺。北越戊辰戦争時の明治元年・慶応4年(1868年)4月26日、ここに長岡藩の本陣が置かれました。長岡藩の軍事総督を務めた河井継之助は、新政府軍側との交渉(小千…
新潟県長岡市街東に位置する悠久山公園のほぼ中央に、8000平方メートルの敷地を誇る自由広場がありますが、そこから小高い丘に建つ長岡市郷土資料館へと向かう坂道の途中にあるのが、河井継之助の碑。河井継之助(かわいつぎのすけ)…
新潟県長岡市の郊外、悠久山公園にある蒼柴神社(あおしじんじゃ)に向かう参道の脇に、ひっそりとたたずむ小林虎三郎の碑(小林病翁の碑)。病翁(へいおう)とは、幼い頃から終始病気にさいなまれた自身を表して、後年虎三郎から改名し…
新潟県長岡市、悠久山公園内に鎮座する蒼柴神社(あおしじんじゃ)の本殿南に位置するのが、旧長岡藩主牧野家霊廟(きゅうながおかはんしゅまきのけれいびょう)。昭和58年、悠久史蹟保存会の手によって、東京・三田にあった牧野家の菩…
新潟県長岡市千手2丁目にある曹洞宗の寺が興国寺で、正保3年(1646年)の開山。山号は太平山。境内には「米百俵」の逸話で知られる、長岡近代教育の父で、明治3年、長岡藩の支藩から送られた米を売り払い、「国漢学校」資金に代え…
新潟県長岡市四郎丸にある曹洞宗の寺が昌福寺で、山号は万融山。河井継之助が軍事総督を務めている北越戊辰戦争時、負傷者を手当てする長岡藩の病院としても利用された寺で、戦後の明治2年5月1日には、長岡藩の文武総督・小林虎三郎が…
新潟県長岡市街の東、悠久山公園内に鎮座するのが蒼柴神社(あおしじんじゃ)。もとは長岡城内に、「長岡藩中興の英主」とも称された、長岡藩3代藩主・牧野忠辰(まきのただとき)を祀ったのが始まり。蒼柴神社の名は忠辰の尊号、蒼柴大…
新潟県長岡市郊外、悠久山公園内・蒼柴神社(あおしじんじゃ)拝殿の裏手にあるのが、悠久山招魂社(ゆうきゅうざんしょうこんしゃ)。明治7年に造営され、幕末の北越戊辰戦争で戦死した藩士309名、後の西南戦争で戦死した旧長岡藩士…
信濃川西岸、長岡大橋のたもと近くに広がる「千秋が原ふるさとの森」。新潟県立近代美術館、産業交流会館ハイブ長岡(長岡市産業展示室)などが建ち並ぶ、広大な敷地の一角を占めるのが、長岡リリックホール。.コンサートホール、シアタ…
かつて八丁沖(八町沖)と呼ばれた広大な沼地の北西端にあたる、新潟県長岡市大黒町。ここが河井継之助率いる長岡藩軍と長州藩、薩摩藩を主力とする新政府軍の北越戊辰戦争の激戦地。現在ではその一角が大黒古戦場パーク(大黒戊辰戦跡記…
かつての長岡城(現在のJR長岡駅周辺)の北東には、東西3km、南北5kmにもおよぶ広大な沼地が広がっていました。それが八丁沖(別名「八町沖」)。現在の地名でいえば大黒、百束、四ッ屋、富島、亀貝一帯。幕末の北越戊辰戦争の激…