泉岳寺・赤穂浪士の墓
江戸城松之大廊下で播磨赤穂藩藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切りつけた殺傷事件が発端になった「赤穂事件」。四十七士が本所・吉良邸に討ち入りし、本懐を遂げた話は『忠臣蔵』として描か…
江戸城松之大廊下で播磨赤穂藩藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切りつけた殺傷事件が発端になった「赤穂事件」。四十七士が本所・吉良邸に討ち入りし、本懐を遂げた話は『忠臣蔵』として描か…
中世に吉良荘を領有した吉良氏は、西条と東条に分かれていましたが(家康に仕えた吉良義安が統一)、東条吉良氏の菩提寺として創建されたのが臨済宗妙心寺派の寺、花岳寺(かがくじ)。江戸時代には高家(こうけ=徳川幕府で儀式や典礼を…
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)ら赤穂浪士・四十七士の討ち入り事件を伝える話「忠臣蔵」であまりにも有名な泉岳寺。代々赤穂藩浅野家の菩提寺として、境内には藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)や夫人の墓の他、吉良上野介の首…
『忠臣蔵』の敵役(かたきやく)となっている吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、高家肝煎(こうけきもいり=有職故実や礼儀作法に精通する高家の代表者3名)に選ばれる名家。しかも地元では名君として知られていますが、…
地元では名君として知られる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)が、1686(貞享3)年、洪水被害にあえぐ領民たちのために、私財を投げ打って築いた堤が西尾市吉良町に残される黄金堤(こがねつつみ)。高さ4mの堤を長さ…
江戸城松之大廊下で播磨赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を切りつけた事件が起こったのが、元禄14年3月14日午前11時頃。その夕刻に江戸を発った藩士が、…
赤穂城内の米蔵があった地に建つのが赤穂市立歴史博物館。5つの連なる白壁土蔵の建物は、かつての赤穂藩米蔵を再現。赤穂の名を世に知らしめた塩と義士のほか、城と城下町、旧赤穂上水道など、4つのテーマに分かれており、それぞれパネ…
『忠臣蔵』(『仮名手本忠臣蔵』)で知られる赤穂藩主・浅野家、さらに永井家、森家と赤穂藩の歴代藩主の菩提寺が赤穂市にある花岳寺(かがくじ)。1645(正保2)年建立の曹洞宗の寺で、赤穂城の塩屋惣門を移築した山門をくぐった境…
浅野長直(あさのながなお)の赤穂藩入封以来、家老職を務めた大石家3代の長屋門。間口28間(約50.5m)、奥行45間5尺(約83m)という大邸宅でしたが、1729(享保14)年の火災で建物の大半を消失し、長屋門だけが現存…
大正元年、旧赤穂城内、浅野家家老職・大石良雄(おおいしよしお=内蔵助/おおいしくらのすけ)宅跡を中心に建てられた神社で、祭神は四十七士と中折した萱野三平。4000坪の敷地には、国指定の史跡である大石邸跡に残された江戸期の…
常陸国笠間藩から入封した浅野長直(あさのながなお)が、慶安元年(1648年)から13年の歳月を費やして築城した名城が赤穂城。甲州流軍学による縄張りは、本丸と二の丸は輪郭式、二の丸と三の丸の関係は梯郭式で、近世城郭史上珍し…
明日香村にある文武天皇陵(もんむてんのうりょう)は、天武天皇と、持統天皇の孫である文武天皇の陵墓と推定される場所で、国営飛鳥歴史公園高松塚周辺地区の南端に位置しています。『続日本紀』に火葬されてこの陵に葬られたと記された…
熊本市西に連なる山々の主峰・金峰山の山頂途中、鳥越峠(とりごえとうげ)にある夏目漱石の『草枕』ゆかりの茶屋が峠の茶屋。一帯は峠の茶屋公園として整備されています。明治30年の暮れに夏目漱石は友人・山川信次郎とともに小天温泉…
明治30年、夏目漱石は、友人の山川信次郎とともに熊本・岳林寺から小天温泉(おあまおんせん)・前田家の別邸へと旅をしました。その時の紀行が有名な『草枕』で、峠の茶屋で休む話が出てきます。漱石は鳥越峠と野出峠という2つの峠を…
日本の近世城郭のなかでも、築城当時の姿を残す唯一の存在といわれる姫路城。歴史は古く、1333(元弘3)年、播磨の守護職・赤松則村によって、砦が築かれたのが始まり。羽柴秀吉により、さらに池田輝政が現在の城郭を建築しました。…
国内に現存する12の現存天守の一つが姫路城の天守。しかも現存する天守のなかで最大の規模を誇り、大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)、さらに天守を結ぶ2重の渡櫓のすべてが国宝に。
池田氏の治世時代、備前丸(天守台南側にある本丸の一部の名称)に本丸御殿がありましたが、備前丸東側の入口に設けられた二重二階の櫓が、折廻櫓(おれまわりやぐら)。西側は大天守の石垣に面し、防御の意味合いも強かったと想定されま…
千姫もそこで時間を過ごしたという姫路城西の丸。西の丸は、多門櫓で囲まれていますが、ルの櫓と化粧櫓間にある「ヌの櫓」は、両側にカの渡櫓とヨの渡櫓がつながっています。1618(元和4)年築の全長300mにも及ぶ廊下に部屋が並…