ガン封じ寺・無量寺
今や三河の名所として多くの人が参詣するのが「ガン封じ寺」として有名な西浦不動・無量寺(真言宗醍醐派/蒲郡市西浦町)。平安開基の古刹で、御本尊の西浦不動(秘仏)は、古来から厄除け、ガン封じの不動様として注目されています。秘…
今や三河の名所として多くの人が参詣するのが「ガン封じ寺」として有名な西浦不動・無量寺(真言宗醍醐派/蒲郡市西浦町)。平安開基の古刹で、御本尊の西浦不動(秘仏)は、古来から厄除け、ガン封じの不動様として注目されています。秘…
名古屋市制100周年を記念して東山公園に併設して建てられた地上134mの展望タワー。標高80mの丘の上にあるため、標高では塔頂部が214mとなります。展望室までの2基のエレベーターはシースルータイプ。防災無線の中継基地と…
愛知県津島市に鎮座する津島神社は、社伝によれば540(欽明天皇1)年創建という古社で全国に3000ある天王社(牛頭天王・スサノオノミコトを祭神とする祇園信仰の神社)の総本社。祭神は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこ…
木更津市矢那に位置する平野山高蔵寺(へいやさんこうぞうじ)は、6世紀創建と伝わる真言宗豊山派の古刹。「たかくらの観音様」の名で親しまれてきました。「高倉観音」は、坂東三十三観音霊場30番札所。寺に一歩踏み込むとうっそうと…
『忠臣蔵』では意地悪い老人に描かれる高家旗本・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の領地が、愛知県西尾市吉良町。吉良家は先祖が家康と一緒に人質として今川義元の駿府で暮らすという名家。しかも、地元を歩くと堤防工事、…
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の故郷は、播州赤穂(ばんしゅうあこう)。現在の兵庫県赤穂市です。赤穂市では赤穂浪士とは呼ばず、赤穂義士と「義士」扱い。赤穂藩の側からその節義を礼賛した歴史観ですが、実は人形浄瑠…
ざっと赤穂事件と呼ばれる、松之大廊下の事件発生の背景をおさらいしたところで、「現場検証」を兼ねて、江戸城松之大廊下を皮切りに、討ち入りのあった吉良邸跡、さらには主君の墓前に吉良上野介(きらこうずけのすけ)の首を献上した増…
赤穂浪士(あこうろうし)の吉良邸への討ち入りで知られる『忠臣蔵』。江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が大ヒットして、一躍有名になった仇討の話。舞台は江戸城松之大廊下に始まり、赤穂浪士の切腹で幕を閉じていますが、…
江戸城松之大廊下で播磨赤穂藩藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切りつけた殺傷事件が発端になった「赤穂事件」。四十七士が本所・吉良邸に討ち入りし、本懐を遂げた話は『忠臣蔵』として描か…
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)ら赤穂浪士・四十七士の討ち入り事件を伝える話「忠臣蔵」であまりにも有名な泉岳寺。代々赤穂藩浅野家の菩提寺として、境内には藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)や夫人の墓の他、吉良上野介の首…
『忠臣蔵』の敵役(かたきやく)となっている吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、高家肝煎(こうけきもいり=有職故実や礼儀作法に精通する高家の代表者3名)に選ばれる名家。しかも地元では名君として知られていますが、…
『忠臣蔵』(『仮名手本忠臣蔵』)で知られる赤穂藩主・浅野家、さらに永井家、森家と赤穂藩の歴代藩主の菩提寺が赤穂市にある花岳寺(かがくじ)。1645(正保2)年建立の曹洞宗の寺で、赤穂城の塩屋惣門を移築した山門をくぐった境…
大正元年、旧赤穂城内、浅野家家老職・大石良雄(おおいしよしお=内蔵助/おおいしくらのすけ)宅跡を中心に建てられた神社で、祭神は四十七士と中折した萱野三平。4000坪の敷地には、国指定の史跡である大石邸跡に残された江戸期の…
日本の近世城郭のなかでも、築城当時の姿を残す唯一の存在といわれる姫路城。歴史は古く、1333(元弘3)年、播磨の守護職・赤松則村によって、砦が築かれたのが始まり。羽柴秀吉により、さらに池田輝政が現在の城郭を建築しました。…
世界文化遺産に登録される姫路城のシンボル的な存在が天守丸にそびえる連立した天守群。国内に現存する12の現存天守の一つが姫路城の天守。しかも現存する天守のなかで最大の規模を誇り、大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守…
池田氏の治世時代、備前丸(天守台南側にある本丸の一部の名称)に本丸御殿がありましたが、備前丸東側の入口に設けられた二重二階の櫓が、折廻櫓(おれまわりやぐら)。西側は大天守の石垣に面し、防御の意味合いも強かったと想定されま…
千姫もそこで時間を過ごしたという姫路城西の丸。西の丸は、多門櫓で囲まれていますが、ルの櫓と化粧櫓間にある「ヌの櫓」は、両側にカの渡櫓とヨの渡櫓がつながっています。1618(元和4)年築の全長300mにも及ぶ廊下に部屋が並…
姫路城の玄関口は江戸時代まで、防備のため3つの門があったことが過去の絵図や文献から明らかになっています。城内へは、内堀に架かる木製の太鼓橋・桜門橋を渡り、桜門、桐二門(桐の外門)、桐一門(桐の内門)を通って入城したのが大…