安房の国の神々を集めて祀った総社。平安時代の初め、安房国総社として国府のあった国府村(現・南房総市府中)に創建され、鎌倉時代に源氏の氏神である八幡宮に変わり現社地に遷座しています。源頼朝が安房国で再起の際には、この社に武運長久祈念し、源実朝(みなもとのさねとも=頼朝の四男・鎌倉3代将軍)が社殿を造営と伝えられています。
安房国の総社を起源に、頼朝の尊崇を受けた名社!
赴任した国司はこの総社に参拝し、国の安寧(あんねい)を祈ったのです。
鎌倉時代に入ると律令体制が崩れ、総社信仰が衰微し、代わって源氏の影響で武神である八幡神信仰が高まります。
そのため、総社から八幡宮へと代わり、鎮座地も遷座したのです(旧社地には元八幡神社が鎮座)。
武神となった後にも、この社の大旦那になることが、安房の国の統治者としての象徴とされ、長きにわたり土地の豪族・里見氏が代々社殿の修復奉納を行なっていました。
1508(永正5)年には里見家3代の里見義通(さとみよしみち)が社殿を再建。
里見義通は、安房国稲村城を本拠とし安房を統一。戦国大名としての里見家の基礎を築いた武将ですから、安房を平定したお礼に、社殿を再建したと推測できます。
現存する社殿は1721年(享保5)年の造営。
また、本殿や拝殿向拝(こうはい)天井にある彫刻が有名で、安房の代表的な宮彫り師・後藤義光(1815年〜1902年)の作品です。
拝殿向拝の格天井にある鏡天井の龍、周囲54体の龍が組み込まれた「百態の龍」は、館山市の文化財に指定されています。
文政年間作の狛犬は、長須賀村(現・館山市長須賀)石工・鈴木伊三郎によるもの。
例大祭は『安房国司祭やわたんまち』(八幡祭)
国司祭(国府祭)の伝統を引き継ぐ例大祭が『安房国司祭やわたんまち』(八幡祭)で、千葉県無形民俗文化財に指定。
9月15日前後の土日(15日の例祭日は神事のみ実施)に斎行。
赴任した国司が国内の全神社に参拝するという儀礼を簡略化するために、国府近くに国内にあるすべての神々を祀った神社を建立したものが総社。安房国の総社で、国司自ら祭礼を斎行したことから「安房国司祭」の名がつけられているのです。
初日は、順次10社の神輿が着御し、もみ・さしを繰り返す「神輿振」の勇姿を後仮宮に納めます。
安房神社(大神宮=安房国一之宮)、洲宮神社(洲宮=安房国二之宮)、下立松原神社(白浜)、手力雄神社(大井)、山宮神社(長田)、山萩神社(山萩)、莫越山神社(丸山)、木幡神社(山本)、高皇産霊神社(高井)、子安神社(湊)の神輿が鶴谷八幡宮に集結。
2日目は、4基の山車と1基の御船と出祭10社の神輿が還御。昔の名残りの放生会を行なうために鶴谷八幡宮神輿は八幡の浜に神幸(浜出)します。
国司祭では、総社の井戸から、水を汲んで神前に捧げられることから始まったため、今でも元八幡神社でお水取りの儀式が行なわれています。
14歳の時に高さ4尺の愛宕神社(南房総市千倉町川合)奉納の大黒天を刻み、人々を驚かせたという江戸時代後期に活躍した伝説の宮彫り師。石工の武田石翁(たけだせきおう)、「波の伊八」こと武志伊八と並ぶ「安房三名工」の一人。
江戸京橋に住む宮彫り師・後藤三次郎橘恒俊が、文政年間(1818年〜1830年)に長狭(現在の鴨川市)の社寺造営に訪れた際、利兵衛は三次郎に入門。数年の修業を経て、師に代わり「後藤利兵衛光定」の名で浦賀湊(現・神奈川県横須賀市)の叶神社の社殿彫刻を彫り名声を上げました。
その後、「後藤利兵衛橘義光」と名乗り鎌倉で活躍をして妻を娶り、42歳になって千倉へ帰郷。鶴谷八幡宮の向拝格天井を刻み、続いて50歳の時に保田妙本寺(鋸南町吉浜)の客殿向拝の龍と蟇股の龍、54歳に安房鴨川・竜性院(鴨川市広場)の本堂向拝の龍の彫刻を刻んでいます。
鶴谷八幡宮周辺にも来福寺、観音寺、南条八幡神社、福生寺、観音院、小網寺、風早不動尊、妙音院、十二天神社、光明院に後藤義光の作品が残されています。
鶴谷八幡宮 | |
名称 | 鶴谷八幡宮/つるがやはちまんぐう |
所在地 | 千葉県館山市八幡68 |
関連HP | 館山市公式ホームページ |
電車・バスで | JR館山駅から館山日東バス南無谷行き、東京湾フェリー行き5分、八幡神社前下車、徒歩3分 |
ドライブで | 富津館山道路富浦ICから約4.7km |
駐車場 | 20台/無料 |
問い合わせ | 鶴谷八幡宮 TEL:0470-22-1258 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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