飯野陣屋(いいのじんや)は、江戸時代、上総国(かずさのくに)周淮郡(すえぐん)飯野(現・千葉県富津市下飯野)にあった飯野藩の藩庁。飯野陣屋のは藩主・保科家とその家臣たちの屋敷がありました。「日本三大陣屋」の一つに数えられ、三大陣屋のなかではもっとも往時の雰囲気を残した陣屋です。
そもそも飯野藩って何!?
飯野藩は、江戸時代初期の1648(慶安元)年、旗本の保科正貞(ほしなまささだ)が大坂定番(大坂城の副城代にあたる)となって、加増され、1万7000石の大名として飯野藩を立藩。
廃藩置県まで10代にわたって続きました。
領地は上総国周淮郡・望陀郡・安房国長狭郡(房総合計4000石)のほか、関西の摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡(摂津国合計1万石)などに保有していました。
最後の藩主となった10代藩主・保科正益(ほしなまさあり)は若年寄まで出世し、幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)では新政府側に与しながら徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の助命を嘆願しています。
明治維新の廃藩置県で飯野県となり、さらにその後、木更津県を経て、千葉県に編入されています。
廃藩置県まで旧上総国には旧藩領を管轄する11県(鶴舞県、久留里県、鶴牧県、一宮県、桜井県、松尾県、菊間県、飯野県、大多喜県、佐貫県、小久保県)が乱立していました。
内邸(うちやしき)を取り囲む濠が現存!
飯野陣屋は、南北280m、東西350mという小藩にしては広大な構えで、越前(現・福井県)の敦賀陣屋、 長州(現・山口県)の徳山陣屋と並んで「日本三大陣屋」の一つに数えられています。敦賀陣屋(敦賀市鞠山)はほとんど遺構がなく、徳山陣屋も周南市文化会館、祐綏神社、周南市徳山動物園となって面影がありません。
飯野陣屋の構造は、本丸・二の丸・三の丸がある東側の内邸(うちやしき)、西側の中級藩士が住む邸と、下級藩士が住む長屋が9棟が建つっていた外邸(そとやしき)から成り立っていました。
近世の城郭ですが、内邸を幅5m~6m、深さ1.2m~2mの外濠(そとぼり)が囲み、さらに外濠の内側に高さ2mの土塁が築かれています。
外邸を取り囲んだ濠は埋め立てられて現存していません。
陣屋としての建物は残されていませんが、外濠と土塁が往時の姿を偲ばせています。
陣屋の入口は、本来は本丸東側の大手門、三の丸西側の搦手門(からめてもん)、そして本丸南側の門の3ヶ所ですが、現在では入口が加えられて7ヶ所となっています。
上級藩士の邸が並んでいた西の丸には飯野神社が鎮座していますが、これは飯野陣屋時代からの社で、陣屋の鎮守社。
もともとは陣屋内にあった稲荷塚古墳(方墳/7世紀)に鎮座していましたが1758(宝暦8)年に、5代藩主・保科正富が現在地に遷しています。
二の丸西側には三条塚古墳(内裏塚古墳群の前方後円墳)があり、濠は古墳の周濠を活用しています。
飯野陣屋 | |
名称 | 飯野陣屋/いいのじんや |
所在地 | 千葉県富津市下飯野 |
関連HP | 富津市公式ホームページ |
電車・バスで | JR青堀駅から徒歩20分 |
問い合わせ | 富津市教育委員会 TEL:0439-80-1340 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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