東京湾を航行する船から、そして富津岬突端の展望塔(明治百年記念塔)から眺めることができる、東京湾の人工島が、千葉県富津市にある第二海堡(だいにかいほ)。富国強兵を目ざした明治時代に、東京湾防備の要として建設された海上砲台で、現在は上陸ツアーも組まれています。
首都防衛の拠点として海上砲台(海堡)を建設
海堡(かいほ/かいほう)の「堡」は、砦を意味する言葉。江戸時代には台場と呼びましたが、明治以降は海堡と呼んでいます。
嘉永6年(1853年)6月3日のペリー浦賀来航後の7月25日には、韮山代官の江川太郎左衛門(江川英龍)は、富津沖に砲台を築くことを提唱しています。
巨額な建設費と長い歳月がかかることから、まずは江戸城や江戸市街に近い品川に台場が築かれました。
明治に入り、清国との戦争が想定されるようになると、首都防衛のために東京湾の海防計画が重要性を帯びてきます。
明治13、観音崎第一砲台、第二砲台の建設に着工。明治14年に富津海堡(第一海堡)の建設がスタート。
こうして千葉県富津岬沖から神奈川県横須賀・観音崎側、つまりは東京湾がもっとも狭まった場所に、3つの海上砲台(海堡)の建築が始まったのです。
明治22年に建設が始まり、大正3年に完成したのが第二海堡です
第二海堡には砲塔跡も現存!
当時の大砲の射程は3000mほどだったため、水深8m〜12mの沖合に建設されたもの。
大正12年の関東大震災で大きな被害を受け、さらに航空機の時代になったことなどから、実戦で使われることなく廃止に。
第二次大戦後、連合国により主要施設は爆破され、現在は浦賀水道航路および中ノ瀬航路の海上安全のため、灯台が設置されています。
中央砲塔の台座部分などは東京湾上から視認できますが、残念ながら立入禁止になっています。
また、直下型の地震が起きた際に、土砂で航路が妨げられることを危惧し、護岸整備工事も行なわれています。
航路の邪魔、そして地震の時の航路確保の理由から、観音崎側にあった第三海堡(明治25年起工、大正10年完成)は、平成19年に撤去されています。
取材・撮影協力/東京湾フェリー
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