1月11日は、お供えした餅に宿った年神様の霊力をいただく、鏡開きの日。というわけで刃物を使って割ってはいけません。越後の上杉謙信が塩を送り、それが松本に到着した日と伝えられる塩の日(実際にはフィクションともいわれていますが)、山本有三の忌日、そして秩父で産した銅が朝廷に運ばれ、その祝賀で和銅に改元した日。
鏡開き
正月に年神様に供えた鏡餅を雑煮や汁粉にして食べ、一家の円満を願う行事。
年神様の霊力はお供えした鏡餅に宿っているので、鏡餅を食べることで新しい生命をいただくことができるわけなのです。
お供えした餅には神様の霊が宿っているので、刃物を使わず木づちなどで叩いて割りましよう(鏡を開くとはこのこと)。
元々は松の内が終わる小正月(旧暦1月15日)後の旧暦1月20日に行なわれていましたが、3代将軍・徳川家光の没日が慶安4年4月20日(旧暦)であったため、1月20日を忌日として避け、後に松の内(1月7日)後の旧暦1月11日とされました。
松の内が1月15日の地方では1月20日(二十日正月)に行なわれます。
京都では1月4日に行なわれています。
いせさき初市
毎年1月11日、鏡開きの日に開催されるのが群馬県伊勢崎市の『いせさき初市』。
200店が出店するだるま市で、『上州焼き饅祭』、『百円商店街』も同時開催されています。
塩の日
1567年(永禄10年)、武田信玄は駿河国(静岡県)の今川氏との同盟を破棄、遠州・三河方面への進出を図ります。
それに対抗したのが今川氏真による塩留(『萩原芦沢文書』)。
当時、甲斐や信濃への塩は、遠州・相良(現在の静岡県牧之原市相良)からの南塩ルート、三州・吉良(現在の愛知県西尾市吉良)からの三州ルート、越後・糸魚川(新潟県糸魚川市)から松本街道をへての北塩ルートなどがあったと推定されます。
遠州からのルートを絶たれたので、越後の上杉謙信が塩を送り、それが松本に到着したのが永禄11年(1568年)1月11日のことだといいます。
塩が松本に着いた日を記念して始まった松本の「塩市」は、『松本あめ市』(毎年1月11日前後の土日に開催)として復活しています。
ちなみに五次にわたる川中島の合戦はすでに永禄7年(1564年)に終焉し、上杉は今川への同盟へと傾斜。甲駿関係も険悪化していた時期にあたります。
しかし実際に謙信が信玄に塩を送ったかといえば、後世の創作とみるのが一般的で、それを裏付ける歴史的な史料は発見されていません。
一一一忌
『真実一路』、『路傍の石』などの著作で知られ、明治大学文芸科の初代科長を務めた小説家・山本有三は、昭和49年1月11日没。
戦後の第1回参議院議員通常選挙では全国区から出馬して9位で当選してもいます。
東京都三鷹市の西洋式の屋敷と庭園は、三鷹市山本有三記念館として開館。
郷里の栃木県栃木市には山本有三ふるさと記念館があります。
和銅に改元
慶雲5年1月11日、武蔵国秩父郡(現・埼玉県秩父市黒谷)から、和銅(にぎあかがね=熟銅)と呼ばれる銅の塊が発見され朝廷に献上されたことを祝い、年号が慶雲から和銅に改められました(『続日本紀卷四』)。
さらに「和同開珎」が発行されています。
「和銅」が採掘された露天掘跡は、今もなお秩父市黒谷の和銅山に残されています。
ただし、年号は「和銅」、銭貨名は「和同」と、厳然とした区別があります。
伊豆諸島が静岡県から東京府に移管
明治11年1月11日、太政官布告第1号により、伊豆諸島が静岡県から東京府に移管されました。
実際の事務的な引継は明治11年2月6日に実施。
2月6日付で東京府知事から静岡県令(県知事)宛の受け取りが出され、「伊豆国八丈島ほか六島、当府管轄仰せ出され候については、本日土地人民及び諸帳簿、別紙書目(目録)の通り受け取り候なり」と記されています。
伊豆諸島は、江戸時代には天領(幕府の直轄地)。
明治維新後、韮山県、足柄県、静岡県と目まぐるしく変わっています。
江戸時代、伊豆諸島の島人は、特産物を江戸の島方会所に送り、その金で生活物資を購入していました。
そのことからも東京との結びつきが強く、時の内務卿・大久保利通も、裁判の管轄も東京裁判所なのだから、交通の便や行政の円滑化からも東京府に移管した方がいいと考えたのです。
東京都への移管を受け、式根島の開拓を条件に新島への帰属が認められ、明治21年、3家族と単身1名の4世帯8人が新島から式根島へ移住、式根島が開島されています。
スキー特急「新雪」運転開始
昭和44年1月11日、週末を主体にスキー列車として東京~石打間を1往復運転。
所要は2時間38分。昭和44年は3月9日まで運転されました。
運転当初は157系電車(日光形電車)で運転。
最盛期の昭和47年には下り7本、上り6本が運転され、上野~石打を2時間30分ほどで結んでいました。
信長、瀬戸焼に朱印状を与える
天正2年(1574年)1月11日付の書状で、織田信長は瀬戸焼の窯について加藤市左衛門の居住する地域でのみ、焼くことを認めました。
朱印状など公文書には、永禄10年(1567)11月から「天下布武」印が押されています。
瀬戸焼物釜の事、先規の如く彼の在所に於いて之を焼くべし。他所として釜相立つべからざるもの也」と記されており、加藤市左衛門の移動も禁止した内容になっています。
この背景には、織田信長の尾張統一以前、瀬戸の陶工は、政治の安定・保護(美濃では斉藤道三が商工業振興)を求めて東濃へ移動する傾向がありました。
1月11日生まれの有名人は?
女優・岡田茉莉子、『あしたのジョー』の漫画家・ちばてつや、俳優・大出俊、アナウンサー・たかとりじゅん、俳優・内海光司、俳優・宮下直紀、女優・深津絵里、女優・持田真樹、TOKIO・松岡昌宏、レスリング・浜口京子、女優・関口まい、モデル・太田莉菜ほか。
1月11日生まれの誕生花は?
匂檜葉(においひば)、カーネーション(ピンク)、フリージア(黄色)
明日は何の日? 昨日は何の日?
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