太宰府(だざいふ)の北、なだらかに広がる四王寺山脈(福岡県宇美町・大野城市・太宰府市の境)にある古代の山城が大野城(おおののき)。水城(みずき)が造られた翌年、665(天智天皇4)年、大宰府の北の守りとして、南に備えられた基肄城(きいのき)とともに築かれた古代の山城で、国の特別史跡に指定され、「日本100名城」にも選定。
日本最古の朝鮮式山城は、古代最大の城跡
百済(くだら)滅亡直後の663(天智天皇2)年、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)に倭国軍を送り、唐・新羅連合軍と激戦を行ないましたが敗戦。
倭国は、大陸からの脅威に怯えることとなります。
『日本書紀』には、「天智四年達率(だっそつ=百済の官位)答本春初(とうほんしゅんそ)を遣はして、城(き)を長門国に築かしむ。達率憶礼福留(おくらいふくる)、達率四比福夫(しひふくふ)を筑紫国に遣はして、大野及び椽の二城(ふたつのき)を築かしむ」と記されています。
つまり、百済滅亡に伴って朝鮮半島から亡命した百済国の達率(たつそつ)・憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)の指導で、朝鮮半島にある山城を手本に城塞を築いたことが判明しています。
『続日本紀』の698(文武天皇2)年には、大野城、基肄城、鞠智城(くくちのき/熊本県山鹿市・菊池市)の三城の修復の記載もあり、当時の国際情勢の緊迫を垣間見ることができます。
『万葉集』にも詠われた大野山(四王寺山脈)は奈良時代に四天王が祀られた四王寺が創建され、その名が山の名として今に続いています。
大野城跡の史跡指定面積の8割は宇美町(うみまち)で、一帯は、福岡県立四王寺県民の森として整備。
大野城探勝の起点は、県民の森センター(駐車場)となります。
カエデ、モミジ、ヌルデ、イチョウ、コナラが茂る紅葉の名所でもあり、紅葉の見頃は、例年11月中旬〜11月下旬。
山上には石垣、土塁、礎石などが現存
古代の城とはいえ、太宰府防備の前線として機能した大野城は、版築(質の違う土を、厚さ数センチ単位で突き固める工法)で築かれた総延長8.4km(外周6.8km)にもわたる土塁や石垣で山頂部を囲み、その中に建物を築く大規模な山城です。
大宰府を守備するということから、日本遺産「大宰府」の重要な構成資産になっています。
標高410mの四王寺山(大城山)を中心として、太宰府口城門、観世音口城門、坂本口城門、水城口城門、クロガネ岩城門など9ヶ所の城門が配されていました。
倉庫跡などと思われる礎石が約71棟分も山中に点在しています。
城壁は尾根に土を高く盛った土塁ですが、複雑な起伏のため、谷には石垣、ダムのような石塁が築かれています。
四王寺川に築かれた石垣は長さが180mほどのため「百間石垣」と呼ばれています。
南の山頂部、太宰府口城門に近い内周土塁のすぐ内側には、4棟の高床式倉庫の跡が一列に並ぶ増長天礎石群(ぞうちょうてんそせきぐん)が発掘されています。
また、その北側、焼米ヶ原(駐車場があります)には尾花礎石群が、県民の森センターの北側には八ツ波礎石群、城郭の北側、百間石垣近くには主城原礎石群が残されています。
山上では水の確保も重要で、増長天礎石群のすぐそばにある鏡池は、古代の井戸の跡と想像できます。
鏡池から北西へ500m歩いた「けいさしの井戸」は、造られた年代は定かでありませんが、円形に組まれた石組みがあります。
太宰府口城門から南へ四王寺林道を太宰府方面へ下れば、途中には岩屋城跡もあります。
ちなみに朝鮮半島への応援軍は難波宮から瀬戸内を航海し、娜大津(なのおおつ=現在の博多)から出陣しています。
大野城 | |
名称 | 大野城/おおののき |
所在地 | 福岡県糟屋郡宇美町四王寺・太宰府市太宰府・大野城市瓦田 |
関連HP | 宇美町公式ホームページ |
電車・バスで | JR大野城駅からタクシーで20分 |
ドライブで | 九州自動車道太宰府ICから約7km |
駐車場 | 福岡県立四王寺県民の森駐車場などを利用 |
問い合わせ | 宇美町社会教育課 TEL:092-933-2600 太宰府市観光推進課 TEL:092-921-2121 福岡県立四王寺県民の森管理事務所 TEL:092-932-7373 |
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