御所ヶ谷神籠石

御所ヶ谷神籠石

福岡県行橋市の南西部に位置する周囲約3㎞、面積35万㎡の大規模な古代山城跡が御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)。ホトギ山(御所ヶ岳、標高246.9m)の山頂から山麓一帯に長大な花崗岩の石塁が築かれています。発掘調査で列石が土の城壁(土塁)の基礎であることが判明し、古代の山城跡であることが判明。

唐・新羅軍襲来に備えた古代山城の土塁、石塁跡

663年、朝鮮半島にあった百済(くだら/朝鮮半島西南部の馬韓が統一されて誕生した古代国家)救援のために海を渡って派兵した大和朝廷ですが、白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)で唐・新羅の連合軍に大敗。
唐・新羅軍の侵攻に備え、九州防備で防人(さきもり)と烽(とぶひ)を配置するとともに大野城(おおののき)、鞠智城(くくちのき)、水城(みずき)、基肄城(きいのき)、金田城(かなたのき)など山城が築かれましたが、御所ヶ谷神籠石もそのひとつ(現在、古代の山城は、北九州から瀬戸内海沿いの地域にかけて、16ヶ所が確認されています)。

想定される防衛ラインは総延長3kmで、そのうち2kmに土塁、土塁が谷を渡る部分は通水口を備えた石塁といった人工の構築物、そして東門、中門、西門など合計7ヶ所の城門跡が見つかっています。
とくに、花崗岩の切石を巧みに積み上げ通水口を設けた中門の2段の石塁(高さ7.5m、長さ18m)は見事です。

御所ヶ谷の防衛ラインの役割は、大宰府政庁(だざいふせいちょう)と京都平野(みやこへいや=現・行橋市)をつなぐ古代官道の守備だと推測できます。

高さ3m~5mの土塁は、朝鮮半島から伝わった土を板枠に少しずつ土を入れてつき固めながら積み上げる版築(はんちく)という技法で築かれています。
駐車場から徒歩5分で中門跡。

ちなみに、御所ヶ谷という地名は、九州を訪れた景行天皇がこの地に行宮(仮御所)を設けたとの伝承に由来。
ホトギ山から東側へ尾根を歩くと秀吉が滞在し、黒田官兵衛が居城した馬ヶ岳城跡があり、古代の山城、戦国時代(中世)の山城を見比べることができます。

名称 御所ヶ谷神籠石/ごしょがたにこうごいし
所在地 福岡県行橋市津積ほか
関連HP 行橋市公式ホームページ
ドライブで 東九州自動車道今川スマートICから約6km
駐車場 御所ヶ谷神籠石自然公園駐車場(20台/無料)
問い合わせ 行橋市文化課 TEL:0930-25-1111
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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