大宰府政庁跡

天智天皇(てんじてんのう)が約1300年前に九州の政治の中心として創建した役所が大宰府政庁(だざいふせいちょう)。奈良から平安時代にかけて九州を治め、わが国の西の守りとしての防衛を、また外国との交渉の窓口として重要な役割を担っていました。当時は平城京、平安京に次ぐ規模を誇り、大宰府政庁跡には立派な礎石が残されています。

「都府楼跡」の名で親しまれる、礎石が残る史跡公園

大宰府政庁は、663(天智天皇2)年、朝鮮半島の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で、倭国・百済連合軍が、唐・新羅連合軍に敗れた後、唐の侵攻に備えて、築かれた政庁。
同時に、滅亡した百済の技術を使って、大宰府を守備する、大野城(おおのき)、水城(みずき)、基肄城(きいじょう/きいのき)という古代の城を築城しています。

大宰府という名は、大いなる宰(指導者)のいる府という意味。
政治、軍事だけでなく、アジアに開かれた玄関口として外交の機能も有していました。

風水思想にのっとって築かれた大宰府には、政所、蔵司、匠司(たくみのつかさ)などのほか、海岸防備の防人司(さきもりのつかさ)、船の造船・修理を担う主船司(しゅせんし/ふねのつかさ)、外人接待の蕃客所(ばんかくしょ)、官人養成機関である学校院など19の役所が置かれていました。
日本遺産「大宰府」を構成する中心的な存在で、奈良の平城宮跡、東北の多賀城跡と並んで日本三大史跡にも数えられています。

南門から堂塔が一直線に並んでいた!

南門の礎石

中門の礎石

正殿跡(都府楼跡石碑)

大宰府の政庁は、南門、中門、正殿、後殿が一直線に並び、中門と正殿の間には西脇殿、東脇殿が配されていました。
そんな大宰府政庁は「遠の朝廷」(とおのみかど)と呼ばれ、律令国家の設立時期に、なんと1000人を数える官人(官僚)が働いていたと推測されています。

菅原道真も藤原時平の讒言(ざんげん)で大宰府に左遷され、大宰府の長官にあたる大宰権帥に就きますが、実際には幽閉状態で、大宰府政庁には一度も登庁していません。
道真が暮らした政庁の南館(現在の榎社)は雨漏りがするほど荒廃していたといいますが、延喜3年(903年)2月25日、失意のままに南館で病没しています。

大宰府政庁跡一帯は史跡公園として整備され、門や回廊、役所跡が復元されています。
敷地内にある「大宰府展示館」では発掘の時に出土した平安時代の排水遺溝をそのまま展示公開。

外国からの賓客の迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が博多に置かれ(鴻臚館跡=現在の福岡城三の丸一帯)、福岡市西区周船寺の伊覩神社(いとじんじゃ/主船司神社)は、当時の造船施設のあった地と推測されています。

また能古島北端(福岡市西区能古)の也良崎(やらのさき)は防人(さきもり)が置かれたと史実で判明する唯一の地。
大宰府を中心に北九州が大陸との交流の地だったことがよくわかります。

ちなみに太宰府市の15%が史跡地に指定されており、古代史のロマンを今に伝えています。
大宰府政庁近くには、別に筑前国の国府があったと推測されていますが、その場所は定かでありません。

大宰府と太宰府の違いは!?
現存する古代の印影が、「大宰之印」であることから、律令制を支えた古代の政庁は、「大宰府」と表記したと考えられています。
しかし、奈良時代の文書にすでに「太宰府」という表記があり、中世には「太宰府」という記載が一般的になっています。
一般には古代の政庁を「大宰府」、中世以降の地名や天満宮については「太宰府」と表記しています。

大宰府政庁跡 DATA

名称 大宰府政庁跡/だざいふせいちょうあと
所在地 福岡県太宰府市観世音寺4-6-1
関連HP 太宰府市公式ホームページ
電車・バスで 西鉄都府楼前駅から徒歩15分。または、西鉄五条駅から徒歩17分
ドライブで 九州自動車道太宰府ICから約4.1km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 太宰府市観光推進課TEL:092-921-2121/FAX:092-921-1601
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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