福岡県五大名城とは!?

福岡県五大名城

福岡県では、福岡藩の藩庁だった福岡城と、ヤマト王権が築いた古代山城の大野城(おおののき)が日本100名城、小倉藩の藩庁だった小倉城、古代山城の水城(みずき)、久留米藩藩庁の久留米城が続日本100名城に選定。以上の5城が、福岡県五大名城といえるでしょう。

福岡城|日本100名城

所在地:福岡県福岡市中央区城内
築城年:慶長6年(1601年)=7年を費やして完成
築城者:黒田長政(初代福岡藩主)
主な城主:黒田長政、黒田光之
史跡:国の史跡
文化財:多聞櫓(たもんやぐら)とそれに続く二の丸南隅櫓が国の重要文化財、潮見櫓、下之橋御門(大手門)、祈念櫓、旧母里太兵衛邸長屋門(きゅうもりたへえていながやもん)、名島門(移築)が福桶県の文化財に指定
備考:江戸時代の大半、天守はありませんでしたが47の櫓がある名城
福岡藩の藩庁
現在は舞鶴公園として整備

福岡城

関ヶ原の合戦の戦功により、筑前52万石の領主となった初代福岡藩主・黒田長政が、1601(慶長6)年から7年がかりで築城した城が福岡城。一説には豊臣秀吉の文禄・慶長の役で2回にわたって攻防戦を繰り広げた韓国・晋州城(チンジュソン・現在の晋州市

大野城(おおののき)|日本100名城

所在地:福岡県糟屋郡宇美町四王寺・太宰府市太宰府・大野城市瓦田
築城年:天智天皇4年(665年)
築城者:ヤマト王権
主な城主:不明
史跡:国の特別史跡(古代城跡)
遺構:土塁、石塁、水門、城門などが現存
備考:百済滅亡後の天智天皇2年(663年)、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)の戦いで敗北を喫したため、唐・新羅連合軍の倭国襲来の可能性が増したため、四王寺山脈(福岡県宇美町・大野城市・太宰府市の境)に朝鮮式山城を築城
総延長8.4km(外周6.8km)にもわたる土塁や石垣で山頂部を囲み、その中に建物を築く大規模な山城で、太宰府口城門、観世音口城門、坂本口城門、水城口城門、クロガネ岩城門など9ヶ所の城門が配されていました

大野城

太宰府(だざいふ)の北、なだらかに広がる四王寺山脈(福岡県宇美町・大野城市・太宰府市の境)にある古代の山城が大野城(おおののき)。水城(みずき)が造られた翌年、665(天智天皇4)年、大宰府の北の守りとして、南に備えられた基肄城(きいのき)

小倉城|続日本100名城

所在地:福岡県北九州市小倉北区城内2-1
築城年:戦国時代末期、近世城郭=慶長7年(1602年)
築城者:毛利勝信(もうりかつのぶ=森勝信)、近世城郭=細川忠興(ほそかわただおき)
主な城主:小笠原忠真
史跡:指定なし
遺構:石垣、堀など
備考:小倉藩の藩庁
一帯は勝山公園として整備され北九州市立小倉城庭園(下屋敷跡)、八坂神社(北の丸跡/昭和9年に鋳物師町から小倉城跡内に遷座)、北九州市立松本清張記念館(二の丸跡)などが建つ文化・歴史ゾーンとなっています
現在の天守は昭和34年に再建された鉄筋コンクリート造りの模擬天守(歴史的な考証、検証を経ていません)

小倉城

小倉城

関門海峡に面した小倉は九州、瀬戸内の入口に位置する交通の要衝。戦国時代の末に尾張国出身の毛利勝信(もうりかつのぶ=森勝信)が九州平定と肥後国人一揆鎮圧の功労で秀吉から豊前国小倉領を拝して築城したのが小倉城始まり。江戸時代には小倉藩の藩庁とな

水城(みずき)|続日本100名城

所在地:福岡県太宰府市国分・水城など
築城年:天智天皇3年(664年)
築城者:ヤマト王権
主な城主:不明
史跡:国の特別史跡(古代城跡)
遺構:土塁、城門跡、外濠跡など
備考:百済滅亡後の天智天皇2年(663年)、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)の戦いで敗北を喫したため、唐・新羅連合軍の倭国襲来の可能性が増したため、大宰府防備を目的に人海戦術で築かれた全長1.2kmの土塁と水堀
基底部の幅80m、高さ13mを超える長大な土塁で、日本遺産「大宰府」の構成資産にも

水城

百済(くだら)滅亡直後の663(天智天皇2)年、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)に倭国軍を送り、唐・新羅連合軍と激戦となりますが敗戦。百済は滅亡し、倭国は、大陸からの脅威に怯えることとなります。そこで、664(天智天皇3)年に唐・新羅の攻撃

久留米城|続日本100名城

所在地:福岡県久留米市篠山町444
築城年:天正15年(1587年)
築城者:毛利秀包(もうりひでかね=小早川秀包)
主な城主:有馬豊氏(ありまとようじ)
史跡:福岡県の史跡
遺構:本丸の石垣、内堀など
備考:豊臣秀吉の九州国割で毛利秀包が築城した平山城、藩政時代には久留米藩有馬氏の居城
有馬家資料を中心に藩政資料を展示する「有馬記念館」が建っています

久留米城跡

久留米城

久留米藩を250年治めた、21万石の藩主有馬氏の居城跡が福岡県久留米市にある久留米城跡。筑後川沿いの小高い岡に築かれた平山城で、天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州国割で、毛利秀包(もうりひでかね=小早川秀包)が3万5000石の城主とし

福岡県五大名城とは!?
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
熊本県四大名城

熊本県四大名城とは!?

熊本県(肥後国)には藩政時代に熊本藩、人吉藩があり(天草は天領)、その藩庁の熊本城(熊本市)、人吉城(人吉市)が日本100名城に選定。熊本藩は特例で、支城として八代城が許され八代城(八代市)と、古代の朝鮮式山城である鞠智城(くくちのき)が続

佐賀県五大名城

佐賀県五大名城とは!?

豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点となった名護屋城(唐津市)、弥生時代の環濠集落・吉野ヶ里(吉野ヶ里町)、佐賀藩の藩庁・佐賀城(佐賀市)が日本100名城、古代の朝鮮式山城の基肄城(きいじょう/基山町)、唐津藩の藩庁・唐津城(唐津市)が続日本100名城

長崎県五大名城

長崎県五大名城とは!?

長崎県にある名城は、松浦氏(平戸藩主)の居城・平戸城(平戸市)、島原藩の藩庁・島原城(島原市)が日本100名城、対馬に築かれた古代山城・金田城(かなたのき/対馬市)、幕末に福江藩が築いた福江城(五島市)、世界遺産の原城(南島原市)が続日本1

宮崎県三大名城

宮崎県三大名城とは!?

宮崎県内で日本100名城に選定されるのは、日南市の飫肥城(おびじょう)のみで、続日本100名城が延岡市の延岡城と宮崎市の佐土原城。それぞれ、藩政時代の飫肥藩、延岡藩、佐土原藩の藩庁で、以上が宮崎県三大名城といえるでしょう。残念ながら高鍋藩の

鹿児島県三大名城

鹿児島県三大名城とは!?

薩摩藩は兵農分離を行なわず、外城制(とじょうせい)という中世的な制度で支配していました。藩庁となった鹿児島城が日本100名城、シラス台地に築かれた中世の山城の志布志城と知覧城が続日本100名城に選定。以上の3城が鹿児島県三大名城といえる城で

大分県六大名城

大分県六大名城とは!?

大分県内で日本100名城に選定されるのは、大分府内城(大分市)、岡城(竹田市)の2城、続日本100名城に選定が中津城(中津市)、角牟礼城(つのむれじょう/玖珠町)、臼杵城(うすきじょう/臼杵市)、佐伯城(さいきじょう/佐伯市)で、以上が大分

 

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