福岡県糸島市有田、昭和40年に発見された弥生時代末の墳丘墓が、平原遺跡(ひらばるいせき)。中心となる平原遺跡1号墳は、銅鏡、ユーラシアの交易路でもたらされたと推測されるガラス玉などの出土品から『魏志倭人伝』に記載される伊都国女王の墓(いとこくじょうおうのはか)だと推測されています。
遠くローマ帝国の支配域から運ばれた重層ガラス連珠も出土
平原遺跡は、昭和40年、土地の持主がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、多数の銅鏡の破片が出土したことで、偶然に発見された弥生時代末の墳丘墓。
平原遺跡1号墳は14m×12mの四隅が丸い長方形の方墳で、中央に長さ3mほどの割竹形木棺が埋葬されていました。
副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されましたが、特筆すべきは、直径46.5cmの内行花文鏡(ないこうかもんきょう=中国の後漢代で流行した銅鏡)が5枚も出土したこと。
日本最大の銅鏡で、しかもひとつの墳墓からこれだけ大型の銅鏡が複数出土した例はなく(出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一)、副葬品の中に武器がなく、ネックレスなどの装飾品が多いことから、伊都国女王の墓だと推測されています(「平原王墓」と通称されていますが、女王だったと推測できます)。
弥生時代終末期(約1800年前)のものと推測され、吉野ヶ里遺跡の発掘で著名な考古学者、高島忠平は、「卑弥呼の墓は糸島の平原1号墳であっても構わないと考えています」(吉野ヶ里遺跡指定30年記念シンポジウム)と語っています。
発掘調査で出土した青い2層構造のガラス玉が複数つながった「重層ガラス連珠(れんじゅ)」は、同じ連珠がカザフスタンの遺跡で出土していることなどから、地中海沿岸で製造されたナトロンという塩類を使ったソーダガラスを材料に、遠くローマ帝国の支配域から中央アジア、モンゴル高原を経てアジア(漢帝国)に運ばれたと推測されています。
伊都国には、漢帝国から朝鮮半島を経由して渡来したものと推測でき、まさに女王にふさわしい弥生時代終末期の「舶来品」ということになります。
平原遺跡1号墳から出土した副葬品はすべて国宝に指定されており、伊都国歴史博物館などに展示されています(常設展示品の内行花文鏡はレプリカ)。
平原遺跡1号墳(伊都国女王の墓) | |
名称 | 平原遺跡1号墳(伊都国女王の墓)/ひらばるいせきいちごうふん(いとこくじょうおうのはか) |
所在地 | 福岡県糸島市有田 |
関連HP | 糸島市公式ホームページ |
電車・バスで | JR筑前前原駅から井原山線バスで平原古墳入口下車、徒歩5分 |
ドライブで | 西九州自動車道前原ICから約4km、周船寺ICから約5km |
駐車場 | 20台/無料 |
問い合わせ | 糸島市文化課 TEL:092-323-1111 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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