『魏志倭人伝』に記された、伊都国・奴国・不彌国の都へ!

今回はGoogleマップを使って『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)の旅を試みます。今回は、そのパート2で、一支国・末盧国に続いての九州上陸編。
古代史ミステリーの旅を続けましょう。

いよいよ九州本土の伊都國

末盧國から「東南陸行五百里、到伊都國」(陸上を東南に五百里で伊都國に至る)。
いよいよ九州本土の移動です。
伊都國は現在の糸島地方(福岡県北西部)で、律令制下の怡土郡(いとぐん)にあたります。
その王都は糸島市の三雲・井原遺跡群、曽根遺跡群一帯と特定されています。

三雲南小路王墓(三雲南小路遺跡=日本最古の王墓)、井原鑓溝王墓(井原鑓溝遺跡)など王墓も判明しています。
ただし「東南陸行」というよりも末盧國(長崎県松浦郡)からは東北東という位置関係になります。

曽根遺跡群の中心が、国の史跡でもある平原遺跡(ひらばるいせき/福岡県糸島市有田1)。
ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数は、弥生時代としては日本一。
平原遺跡から出土の日本一、大きな銅鏡「大型内行花文鏡」などを収蔵展示する伊都国歴史博物館も建てられています。
平原遺跡1号墓出土品の一部は「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で国宝。

平原遺跡1号墓に埋葬された人物は「伊都國の女王」ではないかと推測されています。副葬品に武器が少なく、ネックレスやブレスレットなどの装飾品が多いこと、中国で女性が身につける「耳とう」といわれるイヤリングが副葬されていたからです。

しかも、東側の日向峠(ひなたとうげ)からは、春と秋に太陽が昇ります。つまり。田植えと稲刈りの時期がこれでわかったというわけなのです。

伊都国歴史博物館
伊都国歴史博物館

東南に百里で奴國に到達

伊都國からは次の国は意外に近く「東南至奴國百里」(東南に百里で奴國)。
奴国といえばご存じ金印。「漢委奴国王」と刻まれた金印が出土したのは志賀島(福岡県福岡市東区)です。奴国の王都は春日市の須玖岡本遺跡を中心とする須玖遺跡群(すぐいせきぐん)と特定されています。
この地には当時の日本では最大規模の青銅器工房があったことがわかっており、現在は「奴国の丘歴史公園」として公開されています。

これが教科書にも登場の金印
これが教科書にも登場の金印

さらに奴國からは、「東行至不彌國百里」(東に百里で不彌國に至る)とあります。
距離はあまりあてにはなりませんが、伊都國→奴國と同じ百里です。実は、この不彌國(ふみこく/不弥国)はまだ特定されていません。有力なのは「宇美説(粕屋)」と「嘉穂説」です。
宇美説は、3世紀の糟屋郡内最大の前方後円墳である「光正寺古墳」(糟屋郡内最大の前方後円墳)が王墓と推測しています。

『魏志倭人伝』ではここから再び海路となります。
「南至投馬國水行二十日」。つまり、20日にわたる航海で投馬國(とうまこく)に至るというのです。投馬國に関しては諸説あって定かでありません。
宮崎県西都市妻には都萬(つま)神社があり、近くには九州最大の前方後円墳である女狭穂塚(めさほづか)のある西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)も・・・ということから西都市かという説もありますがこの古墳は実は5世紀築造で『魏志倭人伝』の時代とは異なります。

投馬國は、戸数が5万余戸という大国という点、長官が「弥弥(ミミ)」という呼称であることから出雲という説もありますが、まだ有力な物証がありません。

投馬國が特定できれば邪馬台国が九州なのか畿内なのかが特定されることになりますが、それはまだ先になりそうです。

光正寺古墳

光正寺古墳

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伊都国歴史博物館

伊都国歴史博物館

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三雲南小路遺跡

三雲南小路遺跡

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平原歴史公園(平原遺跡)

平原歴史公園(平原遺跡)

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