福岡県糸島市、唐津湾の沖合に浮かぶ無人島・烏帽子島(えぼしじま)にある知る人ぞ知る灯台が、烏帽子島灯台。九州(糸島半島)と壱岐島の中間点にあり、明治8年8月1日に点灯という歴史ある灯台です。「灯台の父」と称されるブラントンの設計で、灯台は改築されていますが往時の官舎が現存しています。
絶海の孤島に築かれたブラントン設計の灯台と官舎

建設が開始されたのは明治6年8月23日のこと。
開港場となった兵庫(神戸港)や横浜港への外洋航路の安全を確保する目的で建設がスタートしますが(対馬海流が西から東へ流れている場所です)、絶海の孤島ということで、工事は困難を極め、予定よりも8ヶ月ほど遅れての初点灯となっています。
一帯の海域で漁をする底引き網には、中国からの輸入陶磁器、銅銭などが網に入ることが多く、多くの交易船が沈む、海の難所であることがわかります。
灯台の設計はイギリス人技師でお雇い外国人のリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton)が担いましたが、資材の運搬が困難だということから、イギリスから錬鉄(れんてつ)を輸入し、それを使っての鉄造となりました。
レンガや当時高価だったコンクリートでは、輸送や建設が大変ということで、鉄製が採用されたということに。
実際に工事を担当したのは、旧尼崎藩士で、犬吠埼灯台建設にも携わった中沢孝政。
犬吠埼灯台は、国産レンガが使われましたが、烏帽子島灯台はその経験を活かすことができず、鉄製でした。
島には満足な道路もなかったので、まずは資材を運び上げる階段から造る必要があり、灯台の土台も岩盤を削って平らにするという作業が待っていました。
吏員退息所(灯台官舎)など、付属の建物は厳しい風雪から守るために石造りが採用され、それらの資材は初点灯後にも運ばれて、建設が続きました(呼子から物資や人を運搬する船は手漕ぎでした)。
ブラントンが、烏帽子島に灯台建設を決めたのは、壱岐と九州の間を抜ける船の目標になるから。
文化財指定を受けていないのは、昭和50年に当初の鉄造から円筒型の鉄筋コンクリート造りに改築されているから。
厳しい気象条件であることから、改築を重ねてきたことがわかります。
往時の薪置庫は失われていますが、イギリス製のマントルピースが配された石造平屋建ての吏員退息所(灯台官舎)、貯水庫は現存しています。
貯水庫があるのは、水も船で運んでいたから。
それでも冬季には海が荒れて50日間ほど船が来ないこともあり、それを見越しての耐乏生活を余儀なくされていました。
水、そして木炭と薪(薪置庫に収蔵)、米と塩は実に重要で、最優先の物資だったのです。
昭和15年に電信で結ばれるまでは、灯台との定期連絡は、信号を用い、昼間は灯台に提げた黒板の枚数、夜間は赤・緑などの信号、それを定時に望遠鏡で確認し、代員や不足の食料、医師の派遣などの要請を伝えていました。
塔高15.8m、平均海面から灯火までは56m、光達距離20海里(37km)で、毎15秒に1閃光。
初点灯翌冬の明治9年1月25日には職員交替のための灯台守2名(灯明番一級見習・三浦重行、一級見習・横川祏明)と水夫7名を乗せた船が転覆、9人が殉死するという痛ましい事件が起こっています。
昭和51年に巡回管理となるまでは、この孤島で灯台守が交代で生活していました。
快晴なら、唐津市の唐津城などからも島影と灯台を視認できます。
唐津沖24kmということで、かつては夏の間、唐津海水浴場から遊覧船が出ていたこともあったとか。
| 烏帽子島灯台 | |
| 名称 | 烏帽子島灯台/えぼししまとうだい |
| 所在地 | 福岡県糸島市 |
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