古典落語の演目にもなっている『初天神』(はつてんじん)。天神様とは本来、天神(雷神)のことですが、菅原道真の冤罪(えんざい)による左遷(させん)、そして道真没後に天変地異が連続したことから、道真の霊を鎮めるために天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)として祀られたことから、道真に縁の深い25日が縁日となりました。
朝廷が怨霊と恐れた道真はいつしか学問の神様に!
菅原道真は、845(承和12)年6月25日生まれ、903(延喜3)年2月25日没と、生まれも没日も25日。
藤原時平(ふじわらのときひら)の陰謀で官位を奪われ、大宰府に左遷されたもの、901(昌泰4)年正月25日でやはり25日。
ここまで揃えば、天神様となって神格化された菅原道真の縁日が25日なのは、当然のことなのかもしれません。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む大宰府の屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名で、道真を祀る天満宮の神紋は梅紋(うめもん)となっています(「梅」紋は、太宰府天満宮、「星梅鉢」紋は北野天満宮)。
讒言で菅原道真を失脚させた藤原時平は899(昌泰2)年、29歳で左大臣に。道真も同時に右大臣に就任しますが、2年後に失脚。張本人である藤原時平も道真死去の6年後、39歳の若さで死去しています。その死は怨霊となった道真の祟りと噂されたのです。
道真が没した直後に、臣下であった味酒安行が道真を天満大自在天神として祀りますが、その後も醍醐天皇の皇子が相次いで病死、清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)などなど、天変地異が連続。
道真の怨霊は、清涼殿落雷事件をきっかけに、北野の地に祀られていた地主神(じぬしのかみ)の火雷神(ほのいかづちのかみ)と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)となったのです。
朝廷は、京に北野天満宮、大宰府に安楽寺天満宮(現・太宰府天満宮)を建立し、「北野天満宮大神」の神号を与えて、道真の祟りを鎮めようとしています。
平安時代には、朝廷から怨霊と恐れられた天神様(道真)ですが、庶民の感覚はかなり違っており、鎌倉時代以降には冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として信仰されるように天神信仰が広まります。
おもな天満宮の『初天神』
北野天満宮=毎月25日には『ご縁日と境内ライトアップ』、1月25日は、『初天神』で、例月より多い1000軒の露店が立ち、人出は約15万人にも及びます
太宰府天満宮=1月25日は『初天神祭』が執り行なわれます
防府天満宮=毎月25日は御縁日として「天神市」を開催
以上が、「日本三天神」
湯島天神=1月25日は『初天神』で、「鷽替え神事」が行なわれます
菅原道真(天神様)と牛の深い7つの関係
天満宮など、菅原道真を祀る神社に行けば、決まってあるのが、撫で牛です。
(1)道真の生まれた承和12年は乙丑(きのとうし)である
(2)大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った
(3)大宰府に赴任する途中で、命を狙われた際、白牛に助けられた
(4)「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言で、道真の亡骸を葬る際に途中で牛車が動かなくなったのでその地、安楽寺に埋葬した
「御車たちまち道なかにととまりて肥満多力のつくし牛ひけともはたらかす、そのところをはしめて御墓所とさため」(『北野天神縁起』)
(5)道真が牛車を引く牛を可愛がったという道真の人となりから
(6)仏教では大自在天神は白牛に乗るとされていること
(7)道真の有するもうひとつの神号「日本太政威徳天」も牛に騎乗する姿で表現されている
以上の理由で、牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているのです。
現在では「撫牛信仰」として広がり、横たわった牛には、諸病平癒の力があると考えられています。
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