かつて潮待ち湊として栄えた鞆の浦(広島県福山市鞆町)。瀬戸内海随一の要港だった頃の喧噪とは無縁の静けさですが、江戸情緒を色濃く残す街並みは今も健在。鞆七卿落遺跡周辺の白壁土蔵やベンガラ商家の家並みはもちろん貴重ですが、鞆の原風景といえば、やはり港。江戸時代のの常夜灯、雁木(がんぎ)などの港湾施設も現存しています。
江戸時代の港湾施設が現存
寛政3年(1791年)、大可島下から90m、淀媛神社下から36mの波止(はと=海岸から海に突き出す石造建築物)を建設。
さらに文化7年(1810年)に鞆奉行・下宮左門が延長工事を行ない、総長144mという現代に残る近世的な波止を建設しています。
石造の常夜灯は安政6年(1859年)、その足下に広がる雁木(がんぎ=潮の干満を問わず、船が着けるよう工夫された桟橋)は、文化8年(1811年)の築造という、江戸時代の港湾施設が、脈々と今に生き続けています。
紀州藩の「明光丸」と土佐海援隊隊長、坂本龍馬が運用する西洋式の蒸気船「いろは丸」が衝突した「いろは丸事件」が起きたのは慶応3年(1867年)。
つまり、常夜灯も雁木も「いろは丸事件」当時、坂本龍馬が見た時代と同じなのです。
万葉の昔から瀬戸内海交易の拠点
「吾妹子(わぎもこ)が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき」(万葉集巻3-446)
「鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘れえめやも 」(万葉集巻3-447)
「磯の上に 根延ばふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか」(万葉集巻3-448)
の3首は、天平2年(730年)、大宰帥・大伴旅人(おおとものたびと)が大納言に任ぜられて京に上る途中、鞆の浦で詠んだ歌(『万葉集』収録)。
『万葉集』には鞆の浦を詠んだ歌が8首収録されていることからも、万葉の昔から鞆の浦が瀬戸内海交易の重要な拠点、風待ちの湊だったことがわかります。
足利尊氏(あしかがたかうじ)は、楠木正成・新田義貞の攻勢に敗れた後、九州を目指しますが、その途中、光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けたのが鞆の浦です。
さらに室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)は元亀4年(1573年)、織田信長によって京を追放されますが、天正4年(1576年)、毛利輝元を頼って鞆の浦に拠点を移しています。
慶安3年(1650年)鋳造の祇園宮鐘銘には「古来商旅貿易之地也」と記されているように、中世から港町として繁栄していたことがよくわかります。
近世、とくに寛文12年(1672年)、河村瑞軒(かわむらずいけん)による西回り航路の整備以降は北前船や九州船が鞆の浦(鞆の津)に寄港し、さらなる繁栄をもたらしています。
鞆には福山藩の鞆奉行が置かれ、朝鮮通信使の寄港に伴う接待も福山藩の総力をあげて行なわれています。
鮮通信使12回の来日のうち、対馬で引き返した使節を除けば、往復に常に鞆の浦(鞆の津)に寄港しています。
参勤交代の西国大名やオランダ商館長、琉球使節、鞆の津に来航したので、廻船問屋や遊郭なども賑わいをみせたのです。
幕末には,尊皇攘夷をとなえる三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿が立ち寄り、宿泊先は鞆七卿落遺跡(太田家住宅)として現存しています。
鞆港(鞆の浦) | |
名称 | 鞆港(鞆の浦)/ともこう(とものうら) |
所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
関連HP | 福山市公式ホームページ |
電車・バスで | JR福山駅から鞆鉄バス鞆の浦行きで30分、終点下車 |
ドライブで | 山陽自動車道福山東ICから約15kmで福山市鞆の浦第1駐車場 |
駐車場 | 福山市鞆の浦第1駐車場(40台/有料) |
問い合わせ | 福山市観光課 TEL:084-928-1043 |
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