歴史の見える丘

歴史の見える丘

広島県呉市宮原にある明治以降の呉の歴史が一望できる公園が歴史の見える丘(昭和57年開園)。戦艦「大和」を建造したドックの上屋である旧呉海軍工廠造船部造船船渠大屋根(現・ジャパンマリンユナイテッド呉事業所)、旧呉鎮守府庁舎(現・海上自衛隊呉地方総監部庁舎)を眺望。

戦艦「大和」を建造したドックを眼下に

戦艦「大和」を建造したドックである旧呉海軍工廠造船部造船船渠(きゅうくれかいぐんこうしょうぞうせんぶぞうせんせんきょ)は、埋め立てられて現存しませんが、その上屋がジャパンマリンユナイテッド呉事業所として現存しています。
民間施設なので立ち入ることができませんが、歴史の見える丘からなら俯瞰的に眺望することができます。

公園内には、旧呉海軍工廠ドックの壁石を使ってドックの底に下りる階段を再現した「造船船渠記念碑」、旧呉海軍工廠の礎石や銘板を組み合わせて作られた「呉海軍工廠記念塔」、戦艦「大和」の艦橋を模した「噫戦艦大和之塔」(ああせんかんやまとのとう)、正岡子規の句碑などがあります。

正岡子規の句碑に刻まれた「呉港 呉かあらぬ 春の裾山 灯をともす」は、日清戦争下の明治28年、『日本新聞』(日本主義を主張した新聞で、日清戦争では開戦を主張)の同僚・古嶋一雄(こじまかずお)が海軍従軍記者として連合艦隊旗艦「松島」で出征するのを見送るため、呉を訪れた際、船から日暮れの休山を見て詠んだもの。

呉は、明治22年の呉鎮守府設置が軍都としての出発点で、明治30年に呉海軍造兵廠が設置され、明治36年に呉海軍工廠に発展。
明治44年、造船船渠が完成し、戦艦「大和」、戦艦「長門」などを建造しています。

造船技術は、戦後も継承され、石川島播磨重工業、そして現在はジャパンマリンユナイテッド呉事業所となっていて、コンテナ船、タンカーなど商船を製造しています。

歴史の見える丘は、日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成資産になっています。

ちなみに、同じ呉市には御手洗(みたらい)に歴史の見える丘公園がありますが、瀬戸内海舟運で繁栄した御手洗の町並みを眼下にする公園です。

歴史の見える丘
名称 歴史の見える丘/れきしのみえるおか
所在地 広島県呉市宮原
関連HP 呉市公式ホームページ
電車・バスで JR呉駅から徒歩25分
ドライブで 広島呉道路(クレアライン)呉ICから約2km
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ くれ観光情報プラザ TEL:0823-23-7845
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
歴史の見える丘公園

歴史の見える丘公園

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旧呉海軍工廠造船部造船船渠大屋根(ジャパンマリンユナイテッド呉事業所)

旧呉海軍工廠造船部造船船渠大屋根(ジャパンマリンユナイテッド呉事業所)

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