両城の階段住宅

両城の階段住宅

広島県呉市両城にある大正時代末期〜昭和初期に丘陵地の宅地開発で誕生した異色の住宅群が両城の階段住宅。戦前は、日本一の海軍工廠(かいぐんこうしょう/工廠=軍需工場)の街と発展。海軍関係者の住宅需要を前提に、急傾斜地が宅地化されたものです。

呉空襲からも焼け残った階段住宅

地元呉では「両城の二百階段」(両城小学校の裏手、実際には230段あります)、両城八畳岩へと上る「両城の百階段」、「呉市で一番早く朝日のあたる町」で知られる住宅地ですが、段々畑のように傾斜地に石垣を組み、宅地を確保して住宅を建設。
和風の建物と洋館をつなぎあわせた、昭和初期に流行した建て方も見ることができます。

階段住宅が誕生した背景には呉の人口爆発があります。
明治38年に人口7万5714人の呉市が、大正9年には14万9733人と倍増しているのです。
明治44年に戦艦「大和」を建造した造船船渠が完成し、大正12年に呉海軍工廠として独立という過程で、第二次世界大戦中には呉市の人口は40万人を越えたといわれています。

当時を知る地元の人の話では、高給の軍幹部(士官)が石段の上の方に住み、給料が安くなるにつれて、日当たりが悪くなる下の方の貸家だったとか。

軍幹部が階段を歩いて上り下りしたのかといえば、つづら折れの細い坂道「両城の七曲がり」を利用していました。
当初は牛馬、荷車、昭和になってからは車で切り返しに難儀しながら上ったのです。
消防車、救急車などもこの七曲りを突破しないといけないので、訓練に使われたこともあったのだとか。
カーブが鋭角で車両は離合が困難なスイッチバックの生活道になっていました(平成9年に新道が完成しましたが、往時の生活道も私道として残されています)。

現在でも七曲りの上に両城中学校があり(戦前は工員宿舎が建っていました)、両城1丁目、2丁目だけでも400世帯以上が暮らしています。

「急傾斜地崩落危険区域」に指定される現在では空き家も増えつつあるため、NPO法人くれ街復活ビジョンが中心となって住宅を宿泊施設としてリノベーション「石段の家」として貸し出しています。

映画『海猿』では、海猿(潜水士)たちが「両城の二百階段」を酸素ボンベを背負って駆け上がるという訓練シーンを撮影。
「海猿の聖地」になっています。

両城の階段住宅
名称 両城の階段住宅/りょうじょうのかいだんじゅうたく
所在地 広島県呉市両城1丁目・2丁目
関連HP 呉市公式ホームページ
電車・バスで JR呉駅から天応方面行き、または、三条二河宝町線バスで三条3丁目下車、徒歩5分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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