北海道樺戸郡月形町月形にある北海道開拓時代の集治監(しゅうちかん=囚人の収容施設)の遺構が、月形樺戸博物館。樺戸集治監は、明治15年に設置され、明治時代初期の国事犯や一般刑事犯を収監。大正8年からは月形町役場として利用されてきた建物が現存し、博物館になっています。冬季は休館。
「北海道の集治監」として、北海道遺産にも認定
北海道の開拓は道南から始まり、道北、道東は沿岸部、そして大きな河川の流域から和人の入植を広げていきましたが、月形は石狩川沿いで集治監を設置するのにも絶好の場所だったのです。
月形樺戸博物館の施設は、旧樺戸集治監本庁舎、博物館本館からなり、道路の開削などに囚人を使役した北海道開拓の歴史の生き証人ともいえる貴重な博物館になっています。
樺戸集治監は、釧路集治監(標茶町)、空知集治監(三笠市)、網走監獄(網走市)、十勝監獄(帯広市)とともに、「北海道の集治監」として、北海道遺産にも認定。
館内では、樺戸集治監の開監から廃監までの歴史や、逃走防止のために2人1組で鎖に繋がれた囚人たちが、ピストルとサーベルで脅されながら道路開削に関わった歴史を、資料やジオラマなどを用いて、わかりやすく展示しています。
北海道開拓の基盤をつくった囚人労働を知る
明治の初めは、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争など多くの内乱が勃発、その政治犯の収容は明治政府の課題となっていました。
そこで水運の活用できる月形に北海道で最初の集治監(監獄)が設置され、ロシアの南下に備えるためにも急務だった北海道の開拓に囚人たちを使ったのです。
初代典獄(監獄の所長)は、福岡藩士から福岡藩権少参事となり、西南戦争の鎮圧にあたった月形潔(つきがたきよし)で、この人の名が月形町の町名の由来になっています。
開拓使による集治監候補地は十勝川沿岸、有珠郡奥後志山麓(羊蹄山山麓)、石狩川上流の3案がありましたが、開拓使の置かれた札幌に近く、石狩川の舟運が使えることから樺戸に決まりました。
札幌と旭川を結ぶ国道12号も囚人たちが開削した道路(囚人道路)が前身です。
明治16年に2代目の集治監典獄となった長州藩出身で、西南戦争時には西郷隆盛と鹿児島・城山で死闘を繰り広げた武勇伝のある安村治孝(やすむらはるたか)は、囚人を使役すれば安上がりで、仮に死んだとしても監獄費の削減になるという太政官大書記官・金子堅太郎(かねこけんたろう)の建白書「北海道三県巡視復命書」を背景に、市来知(いちきしり=現・空知市)と忠別太(ちゅうべつぶと=現・旭川)を結ぶ道路の開削に囚人を動員しています。
同時に、市来知に空知集治監、道東の標茶(しべちゃ)に標茶集治監(塘路湖畔、標茶町博物館脇に現存)を設置し、北海道の幹線道の開削に囚人を投入します。
ヒグマの出没に怯えながら、原野の飯場で生活し、苦難の上に開削された囚人道路が主要な国道の前身です。
屯田兵や開拓団が入るための最初のインフラを整備したのは、まさに樺戸集治監などに収容された囚人たちでした。
北側の山中には樺戸集治監水道遺跡(3段堰堤方式ダムと取水施設)も残されています。
平成10年に行なわれた発掘調査では、ヨーロッパから輸入された鋳鉄管も出土、北海道開拓における 樺戸集治監の重要性を裏付けています。
月形樺戸博物館 | |
名称 | 月形樺戸博物館/つきがたかばとはくぶつかん |
所在地 | 北海道樺戸郡月形町1219 |
関連HP | 月形町公式ホームページ |
電車・バスで | JR岩見沢駅から北海道中央バス月形駅前行きで38分、月形役場下車、徒歩1分 |
ドライブで | 道央自動車道岩見沢ICから約21km |
駐車場 | 50台/無料 |
問い合わせ | 月形樺戸博物館 TEL:0126-53-2399 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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