短文ながら明瞭で、日本一短い手紙ともいわれるのが「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」。実はこの手紙は戦国時代に、徳川家康を支えた三河譜代の家臣・本多重次(ほんだしげつぐ、通称・作左衛門)が合戦の陣中から妻に送ったとされる手紙です。さてさて、いつどこで出したのでしょう。
原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」

「鬼の作左(さくざ)」とも呼ばれた本多重次は、天野康景(あまのやすかげ)、高力清長(こうりききよなが)とともに三河三奉行のひとり。
有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、天正3年(1575年)5月、武田勝頼と織田・徳川連合軍が戦った長篠の戦い(ながしののたたかい/愛知県新城市)で、陣中から妻に宛てて記した手紙。
実際の文章は、広く伝わるのとは少し異なり、「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」ですが、内容は同じ。
ここに登場する「お仙」は、当時まだ3歳ほどで幼かった嫡子・仙千代(後の本多成重)のこと。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に陣中から送ったという説もありますが、仙千代が12歳となるため、「お仙痩さすな」というのが合わない感じです。
火の用心という言葉も、当時はまだ一般的でなかったわけですが、当時の武士にとって、嫡子と戦場を駈ける馬がいかに大切だったのかがよくわかります。
元亀3年12月22日(1573年1月25日)の三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)で、徳川家康は、武田信玄軍に大敗し、命からがら手勢を引き連れて浜松城に逃げ帰るという大ピンチに陥っていますが、このときに奮戦したのが手紙を書いた本多重次。
「鬼の作左」と称されるようになったのは敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の馬を奪い取って浜松城に逃げ帰った武勇から。
戦場における馬の大切さを誰よりも増して感じ取っていたのかもしれません。
武田家滅亡後に、駿河国の国奉行となり、浜名湖周辺を管理し、水軍を統括しますが、豊臣時代に豊臣秀吉の怒りを買って上総国古井戸(現・千葉県君津市)に蟄居。
さらに蟄居先が下総国相馬郡井野(現・茨城県取手市)に代わって、現在の取手市で没しています(取手市の本願寺が菩提寺)。
手紙に登場する仙千代は、家康次男の秀康(後の結城秀康)が秀吉の養子になった際、秀吉のもとに帯同させていますが、秀康が浜松で誕生した時に、一時、本多重次に預けていたからで、本多重次に対する家康の信頼度がよくわかります。
本多成重となった仙千代は、慶長18年(1613年)、松平忠直(結城秀康嫡男)の付家老となり、丸岡4万石を領有。
大坂の陣では、真田幸村を破るという武功をあげ、寛永元年(1624年)には越前丸岡4万6300石の譜代大名にまで出世しています。
丸岡城(福井県坂井市)に「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」石碑、そして「一筆啓上 日本一短い手紙の館」が建っているのはそのためです。

戦場からの手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、いつどこで誰が出した!? | |
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