長篠設楽原古戦場・徳川家康本陣跡

長篠設楽原古戦場・徳川家康本陣跡

愛知県新城市、長篠設楽原古戦場(ながしのしたらがはらこせんじょう)にある、決戦の際に弾正山( だんじょうやま )に構えた徳川家康本陣跡。武田軍に包囲され籠城した長篠城を救援するため徳川家康は設楽原に出陣し、弾正山に陣を構えています。弾正山は、現在の東郷中学校の脇の丘で、八剱神社(やつるぎじんじゃ)が鎮座。

背水の陣を敷いた家康が本陣を構えた地

長篠設楽原古戦場・徳川家康本陣跡

天正3年5月18日(1575年6月26日)、徳川家康は決戦を前に弾正山本陣を構えます。
徳川家康と佐久間信盛(さくまのぶもり=織田信長の家臣)が最前線に陣を構え、その背後に羽柴秀吉、織田信長(本陣)、岡崎信康(家康の長男)、織田信忠という陣構えとなりました。

対峙する武田軍は前線に武田四天王の馬場信房(ばばのぶふさ)、内藤昌豊(ないとうまさとよ)、山県昌景(やまがたまさかげ)が布陣し、その背後に武田勝頼が本陣を置いています。

徳川家康が本陣を構えた弾正山は、決戦の地・連吾川(れんごがわ=武田軍と織田・徳川連合軍の間に流れていた川)へはわずか300mほど。
家康の立場がよくわかる状況です。

連吾川には2kmにわたり馬防柵が設けられ、さらに弾正山背後の大宮川にも一重柵(馬防柵)が設けられていたので、まさに家康は背水の陣だったことがよくわかります。

ちなみに家康家臣で「鬼作左」と恐れられた本多作左衛門重次が「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」(原文は一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく)と記したのはこの陣中。
お仙とは嫡男・仙千代で、後に丸岡初代藩主となる本多成重のことです。

天正3年5月21日(1575年6月29日)、徳川家康は戦況を見極めるために武田軍が一望できる八剣山の「家康物見塚」に移り、いよいよ合戦の火蓋が切られるのです。
その「家康物見塚」は家康本陣跡の北東400mに位置しています。

長篠設楽原古戦場・徳川家康本陣跡
名称 長篠設楽原古戦場・徳川家康本陣跡/ながしのしたらがはらこせんじょう・とくがわいえやすほんじんあと
所在地 愛知県新城市竹広(八剱神社)
関連HP 新城市公式ホームページ
電車・バスで JR飯田線三河東郷駅から徒歩15分
ドライブで 新東名高速道路新城ICから約2km
駐車場 新城市設楽原歴史資料館駐車場(100台/無料)を利用
問い合わせ 新城市設楽原歴史資料館 TEL:0536-22-0673
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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