竹千代(家康)・織田信広「人質交換」の笠寺観音

竹千代(家康)・織田信広「人質交換」

大河ドラマなどで好評を博す徳川家康ですが、家康が幼少時代に、今川家の人質になっていたことは知られています。ところが案外、織田家の人質として、幼年時代を名古屋で暮らしたことは知られていません。織田家の人質だった竹千代(家康)と織田信広の人質交換が行なわれたのが、名古屋市南区の笠寺観音です。

家康、織田家の人質となって名古屋に幽閉

当時の那古野城は現在の名古屋城二の丸跡あたりにあった
当時の那古野城は現在の名古屋城二の丸跡あたりに

竹千代(家康)が人質となった時代、当時の名古屋を治めていたのは那古野城主・織田信秀(織田信長の父)。
家康は竹千代時代に2年間織田家に人質として幽閉されています。
そして、その後、笠寺観音で織田信広(信広が守備する安祥城を今川義元が攻略し、人質に)との人質交換が行なわれて、駿府の今川義元の元へと送られるという波乱の人生を送っているのです。

一般に知られているのは、今川義元の人質となった話。
ドラマチックな家康の人生は、それ以前から始まっています。

家康の生い立ちをさらりと学んでおきましょう。
天文11年12月26日(1543年1月31日)、岡崎城に生誕(幼名、竹千代)。
天文16年(1547年)、松平広忠(家康の父)は、岡崎を攻略しようとする織田信秀(織田信長の父)に対抗するため、当時は大きな勢力を有した今川義元と同盟を結びます。
そして数えで6歳の竹千代(家康)は、人質として今川方に差し出されることに。
こうして家康の波瀾万丈の生涯が始まります。

今川家の居館である駿府(静岡市)への護衛は田原城主・戸田康光(とだやすみつ)が担当。
岡崎城から徒歩で渥美半島へと出て、老津の浜(豊橋鉄道渥美線老津駅近く)から舟で駿河を目ざすという計画だったわけですが、舟はなぜか織田信秀の居城・那古野城(のちの名古屋城)を目ざします。
竹千代は、義理の祖父・戸田康光の裏切りに合い、敵方の織田信秀に銭百貫で売り飛ばされたのです。

竹千代は当初、熱田神宮近くの豪商・加藤図書助順盛(かとうずしょのすけのぶもり)の邸宅に幽閉。
その跡地には現在「家康幼児幽居地」(下の地図参照/愛知県名古屋市熱田区伝馬2-13-3)という看板が立つのみで、とくに往時を偲ぶものは何も残っていません。
家康は江戸に幕府を開いた後、加藤家に家康は140余石の土地を与えて、感謝の意を表していますが、そんなところにも家康の気配りを感じます。

笠寺観音で人質交換

織田家の菩提寺・萬松寺は現在は大須に建っている
織田家の菩提寺・萬松寺は現在は大須に建っています

その後、竹千代は織田家の菩提寺・萬松寺(万松寺)へと移されます。
萬松寺は、織田信秀が織田家の菩提寺として開基した寺。

現在は名古屋の繁華街・大須に建っていますが、当時は織田家の居城、那古野城の南側、現在の名古屋市中区錦と丸の内2、3丁目にまたがる一帯に広大な寺域(5万5000坪)を所有していました。
何かあった際にも守備しやすいなど、様々な要素があったと推測できます。
ここで暮らす間に若き織田信長(信長は家康より9歳年上です)と対面したと推測できます。

天文18年(1549年)、家康の父、松平広忠が没すると、今川家はすぐに動きます。
太原雪斎(たいげんせっさい)率いる2万の大軍が、織田方の安祥城(現・愛知県安城市)を陥落させ、城将・織田信広(織田信長の庶兄)を生け捕りにするという戦果を勝ち取っています。

信長は正室の子、信広は側室が産んだ庶子(しょし)という差はあったでしょうが、織田家にとっては長男なので、人質を交換するならまさに切り札。

天文18年11月9日(1549年11月27日)、織田家に幽閉された松平竹千代(家康)と今川家の囚われの身となった織田信広の人質交換交渉が成功。
東海道沿いの笠寺観音(笠覆寺/名古屋市南区)で人質交換が行なわれ、竹千代は駿府、今川義元の元に送られることになったのです。

名古屋城を守る「尾張四大観音」のひとつ笠寺観音
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