桶狭間・高根山(有松神社)

桶狭間・高根山(有松神社)

愛知県名古屋市緑区、大高緑地公園の東側にある桶狭間(おけはざま)・高根山(有松神社)は、住宅地の一角になっていますが、標高54.5mと一帯の最高地点。桶狭間の合戦の際に今川軍の先鋒として、遠江二俣城主・松井宗信(今川義元の近従で、三河尾張の遠征軍指揮官)が着陣した場所です。

桶狭間の戦いで今川軍本陣の前備えとして機能

高根山は、桶狭間の南北に連なる丘陵に、北側から高根山、幕山、巻山の順に並んでいます。
高根山から幕山にかけ、松井宗信率いる1500名の兵が、巻山には井伊直盛(いいなおもり=女領主となったNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』・井伊直虎の父)隊1000名のが陣取りました。

高根山から善照寺砦(ぜんしょうじとりで=名古屋市緑区鳴海町砦の砦公園/鳴海城の東側)、中島砦(名古屋市緑区鳴海町下中/扇川と手越川の合流点)方面の織田軍の動静を監視したのです。

今川軍は鳴海城(なるみじょう)と大高城を掌握しており、鳴海城を包囲するため織田信長は、善照寺砦、中島砦、丹下砦(名古屋市緑区鳴海町字丹下/光明寺の裏山)の三砦を築いて対抗しています。
さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側(現在の大高緑地公園の西側)に丸根砦、鷲津砦を構築。

高根山は善照寺砦から出た佐々政次(さっさ まさつぐ=佐々成政の兄で井関城主)、千秋秀忠(せんしゅうすえただ=羽豆崎城主で熱田宮大宮司)の先遣隊300人との激戦地にもなった地。
善照寺砦に着陣した信長本隊の動きを悟られず、今川軍の目をそらせる決死隊でしたが、決死隊は壊滅。

松井宗信は、その後、信長が今川義元の本陣を攻撃した際に、手勢200名を率いて馳せ戻り懸命に奮戦して討ち取られ、井伊直虎の父・井伊直盛も家臣16人とともに戦死しています(直盛は井伊氏の菩提寺・龍泰寺に葬られ、龍潭寺殿という法名により寺号を龍泰寺から龍潭寺へ改名)。

高根山にある有松神社は、日清、日露、太平洋戦争の戦没者を祀るため、昭和30年に改築建立されたものです。

桶狭間・高根山(有松神社)
名称 桶狭間・高根山(有松神社)/おけはざま・たかねやま(ありまつじんじゃ)
所在地 名古屋市緑区有松町桶狭間高根39-242
電車・バスで 名鉄有松駅から徒歩15分
駐車場 なし
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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