桶狭間神明社

桶狭間神明社

愛知県名古屋市緑区桶狭間神明にある神社、桶狭間神明社(おけはざましんめいしゃ)。南北朝時代に南朝の落武者が逃げ込んで開いたと伝わる桶狭間村で、村人が尊崇した村社が神明社です。桶狭間の戦いでは瀬名氏俊(せなうじとし=今川本隊の先発隊として陣営作りを行なった)ら200名が戦勝祈願した社です。

瀬名氏俊が戦勝祈願した社

桶狭間神明社

桶狭間の戦いゆかりの社で、瀬名氏俊が戦勝祈願した際、奉献した酒樽が残されています。
近くの長福寺は、今川家の茶坊主・林阿弥が境内で義元などの首実検をさせられた地と伝えられています。

瀬名氏俊は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)、織田信長が攻め寄せた桶狭間の戦いでは、先に大高城へ向かっていたため、直接は合戦には参加していません。今川本隊の先発隊として200名を引き連れて5月17日に着陣、その後偵察、桶狭間で本隊の陣所の設営などを行なった後に大高に移動)。
瀬名氏俊は、真っ先に桶狭間神明社へ戦勝を祈願し、「戦評の松」の下で情勢を分析、大高、鳴海方面などの偵察を行なうとともに、今川義元が19日に昼食する際の本陣設営し、完了後に移動。
つまりは戦勝祈願のご利益なのか、桶狭間での戦死は免れているのです(瀬名氏俊陣地跡の石碑が大池の畔に立っています)。

有松宿は慶長13年(1608年)、東海道整備のため、知多郡全域に高札を掲げて移住を奨励し開村した村。
当初は桶狭間村に属していたため、寛政年間(1789年〜1801年)に有松天満社が創建されるまで有松の氏神でもあった社です。
有松天満社創建後も本宮と呼ばれ、祭礼では傘鉾が大高、鳴海の山車とともに熱田まで出向き、尾張藩の世継にその姿をみせたとのこと。

近くにある桶狭間古戦場公園は、名古屋市が主張する今川義元終焉の地(豊明市が主張する桶狭間古戦場伝説地とは異なります)。

桶狭間神明社
名称 桶狭間神明社/おけはざましんめいしゃ
所在地 愛知県名古屋市緑区桶狭間神明1520
電車・バスで 名鉄有松駅から徒歩30分
駐車場 あり
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
桶狭間古戦場公園

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