伊賀忍者のふるさととして知られ、今や忍者で世界的に売り出し中の、伊賀上野。そのシンボル的な存在となっているのが伊賀上野城です。優美な姿で被写体にも絶好ですが、実は、復興天守(元あった天守をコンクリートや木造で再建)ではなく、あくまで模擬天守としての建物です。
完成直前に大嵐で崩壊した5層5階の天守

伊賀上野城に天守が建てられたのは豊臣政権下で、信長亡き後、豊臣秀吉の家臣となた筒井定次(つついさだつぐ)の時代。
天正13年(1585年)、『豊臣兄弟!』の羽柴秀長を大和郡山に配したので(畿内を羽柴一門で固める政策)、筒井定次が伊賀上野に移ったのです。
伊賀上野は畿内を守備する最前線で、東国に対しての備えもあったので、防備を重視する城郭を築いています。
筒井定次は、秀吉から羽柴姓を名乗ることを許され、伊賀上野城に3層の天守を築いたのです。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で、筒井定次は東軍に与して所領を安堵され、伊賀一国を支配する国持大名と出世。
ところが、慶長13年(1608年)、重臣の密告もあって、筒井定次は改易となり、家康の側近・藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊賀上野城に入城しています。
築城の名手といわれる藤堂高虎を伊賀上野に配したのは、もちろん、西国への監視が目的。
慶長16年(1611年)、伊賀上野城を大改築し、西側への防備を強化しています。
天守の位置を西側に移動し、5層天守を建設しますが、建設途中の嵐で、倒壊。
大坂の陣で豊臣家が滅亡したため、完成することなく、天守は破却されたのです。
現存天守は「伊賀文化産業城」として昭和10年に築城

伊賀上野城にもし復興天守を建てるなら、初期の3層の天守、あるいは完成を見なかった藤堂高虎の5層天守となりますが、いずれにしても満足な史料がありません。
現存する天守は、昭和10年、地元出身の衆議院議員で翼賛政治に対抗した気骨の政治家、川崎克(かわさきかつ)の尽力で。
藤堂高虎が築いた天守台に、木造本瓦葺の3層3階の大天守と2層の小天守という複合式天守閣を建てたのです。
川崎克は私財を投げ売って、伊賀上野のシンボルにと建設に情熱をかかげますが、予算不足のため、5層5階の天守を断念したのです。
川崎克は、「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」という考えで、この模擬天守を「伊賀文化産業城」と命名しています。
木造で建てたのは、川崎克の心意気でしょうが、3層3階のため、よくみると天守台の面積の半分ほどというスケールに。
立派な模擬天守ですが、藤堂高虎が建てようとした天守は、さらに大きなものだったことがわかるのです。
模擬天守といえど、内部の展示も充実していて、訪れる価値は十分にありますが、藤堂高虎が建てようとしたのはさらに大きな5層5階だったことも、お忘れなく。

| 確実に誤解を生む! まさかの天守閣(8)伊賀上野城|三重県 | |
| 名称 | 伊賀上野城/いがうえのじょう |
| 所在地 | 三重県伊賀市上野丸之内106 |
| 電車・バスで | 近鉄伊賀線上野市駅から徒歩5分 |
| ドライブで | 名阪国道上野ICから約3km |
| 駐車場 | 上野公園駐車場(60台/有料) |
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