岩手県盛岡市、南の寺町(寺ノ下寺院群地区)の中心的な存在の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺、大慈寺(だいじじ)。大正10年11月4日に東京駅(現・丸の内南口)で中岡艮一(なかおかこんいち)の凶刃に倒れた平民宰相・原敬の遺体は盛岡に送られ11月11日、大慈寺に埋葬されています。現存する山門、本堂は、原敬寄進の再建。
盛岡・寺ノ下寺院群にある原敬ゆかりの黄檗寺院
原敬の遺言には「死去ノ際位階勲等ノ陛叙ハ余ノ絶対好マラザル所ナレバ死去セハ即刻発表スヘシ」と大正デモクラシーを現出した原敬らしく、一切の叙勲を辞退しています。
その潔い姿勢は、大慈寺境内の墓石のも現れ、墓石に刻まれた文字は「原敬墓」の3文字のみ。
「墓石ノ表面ニハ余ノ姓名ノ外戒名ハ勿論位階勲等モ記スルニ及ハス」という遺言が遺されていたのです。
大慈寺は、寛文13年(1673年)、黄檗宗大本山・萬福寺で修行した徳真道空を開基として創建。
盛岡藩4代目藩主・南部行信(なんぶゆきのぶ)の五女・麻久子姫(幕子/光源院)が黄檗宗に帰依し、以降、南部藩の庇護を受けています。
麻久子姫は、佐伯藩5代藩主・毛利高久(もうり たかひさ)に嫁ぐも、南部家の江戸藩邸へ逃げ込んで離縁、和泉陶器藩4代藩主・小出重興(こいでしげおき)に再度嫁ぎますが、死別して盛岡に戻って出家、光源院を号したのです。
『盛岡舟っこ流し』も、光源院の懇願で大慈寺4世・万叡和尚が行なった『川施餓鬼』(かわせがき)の大法事が始まりと伝えられています。
大慈寺は、明治17年の盛岡大火で往時の堂宇を失っていますが、原敬の寄進建立で山門、本堂を再建。
大慈寺の楼門形式の山門は明治38年に建築されたもので、盛岡市指定の文化財。
黄檗宗らしい中国風の楼門となっています。
地元の宮大工が本山・萬福寺の山門を模して築いたもの。
また、「腰越荘」は、大正4年3月、原敬が鎌倉の腰越に築いた別荘の居間を移築したもの(書斎部分は同じ盛岡市の「原敬記念館」に移築)。
大火をくぐり抜けた境内の樹木、道路に沿って続く塀などとともに環境保護地区・寺ノ下寺院群の象徴的な存在となっています。
また、境内から湧く水が引水された共同井戸が大慈清水です。
原敬の命日である11月4日には『原敬追悼会』(「原敬を想う会」主催)が開かれ、令和2年には100回目を迎えています。
ちなみに寺ノ下寺院群は、盛岡城の南側を守る寺町で(北側防御は北山寺院群)、大慈寺のほか、祇陀寺(曹洞宗)、永泉寺(曹洞宗)、長松院(臨済宗妙心寺派)、千手院(天台宗)などが現存しています。
大慈寺 | |
名称 | 大慈寺/だいじじ |
所在地 | 岩手県盛岡市大慈寺町5-6 |
関連HP | 盛岡観光コンベンション協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR盛岡駅から岩手県交通バス盛岡城下町線・あさ開行きで11分、大慈寺前下車 |
ドライブで | 東北自動車道盛岡IC、または、盛岡南ICから約7km |
駐車場 | 20台/無料 |
問い合わせ | 大慈寺 TEL:019-622-4709 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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