九戸城

九戸城

岩手県二戸市にある中世、南部氏の居城だった平山城の跡が九戸城(くのへじょう)。明応年間(1492年〜1501年)、九戸氏が築城し、南部氏時代は福岡城と呼ばれていましたが、九戸城と通称されています。国の史跡に指定されるほか、続日本100名城にも選定。

豊臣秀吉軍の謀略で、九戸氏一族惨殺の城

天正19年(1591年)、九戸城主・九戸政実(くのへまさざね)は、主君・南部信直(なんぶのぶなお)に対して反旗を翻したため、南部氏は九戸討伐を豊臣秀吉に要請。
豊臣秀次を総大将に、蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする九戸討伐軍が派遣され、九戸城を包囲し、ついに九戸政実は討伐軍に降伏しますが、降伏すれば命を助けるという助命の約束を反故にし、一族郎党は皆殺しになっています。

この九戸城の落城により、豊臣秀吉の天下統一は名実ともに実現。
残存する九戸氏の残党による反乱を防止するため、秀吉の命によって居残った築城の名手・蒲生氏郷(がもううじさと)が九戸城と城下町を改修し、近世的な城郭へと変貌しています。
南部氏が拠点を九戸から盛岡へと移すのは、蒲生氏郷、浅野長政の助言があったからと推測できます。
南部信直はこの城を福岡城と改め南部の本拠地としましたが、その子・南部重直が盛岡城に本拠を移し、寛永13年(1636年)に廃城に。

城郭は、西に馬淵川、北に白鳥川、東に猫渕川が流れるという、三方を河川に囲まれた天然の要害。
東北最古の石垣が現存する本丸、二の丸、三の丸、若狭舘(わかさだて)、外舘(とだて)、松の丸が空堀で囲まれています(東京ドームの10倍という広大な城郭)。
そのうち、中世、九戸氏の九戸城の名残りをとどめるのは若狭舘、外舘で、本丸は改築された福岡城であることが判明しています。
本丸にある野面(のづら)の古式穴太積み(こしきあのうづみ)の石垣は、蒲生氏郷配下の穴太衆(あのうしゅう)によるものとされ、東北最古と推測できます。
天守や櫓があったか不明です。

三の丸は市街化が進行し、往時の面影はありません。
福岡城が南部氏時代の呼称なのに、九戸城と呼ばれるのは、地元の人の九戸氏への思いからなのだとか(九戸氏が領有したのは100年以上、南部氏は短期)。

九戸城ガイドハウスがあり、4月上旬~11月の間なら九戸城ボランティアガイドが無料でガイドしてくれます(ガイドは完全予約制で、1週間前までに二戸市観光協会に予約が必要)。

ちなみに、豊臣秀吉軍は、女子供にも容赦なく撫で斬りにしたという伝承がありますが、二の丸跡の発掘調査では、首を刎ねられて無数の刀傷を負った女性を含む複数の人骨が出土しており、実際に撫で斬りにされたのが事実だったことも判明しています。

九戸城
名称 九戸城/くのへじょう
所在地 岩手県二戸市福岡城ノ内
関連HP 二戸市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR二戸駅から徒歩30分
ドライブで 八戸自動車道一戸ICから約7km
駐車場 九戸城ガイドハウス駐車場を利用
問い合わせ 二戸市観光協会 TEL:0195-23-3641
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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