古代の伊豆国(伊豆半島)の中心がどこだったかといえば、東海道沿いの三島。
ダテに新幹線が三島に停車するワケではないようです。
天平13年(741年)に聖武天皇の詔勅で諸国にひとつずつ建立された国分寺。
伊豆国分寺跡は三島にあります。
三島の繁華街に国分寺跡を発見!
国分寺の正式名は、今光明四天王護国寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)。
聖武天皇は金光明最勝王経(金光明経は法華経、仁王経とともに護国三部経のひとつ)を写経して全国に配布し、国分寺を建てたのです。
三島市の泉町にはズバリ、伊豆国分寺という日蓮宗の寺が現存しています。
日蓮宗は鎌倉以降ですから、この寺は後継寺院ということに。
奈良時代、仏教が国教で、僧侶が国家公務員だった時代の国分寺には20人の僧が暮らす大規模な寺でした。
しかし、律令制度がゆるむ中世には、国分寺は維持経営が困難になり、廃寺となったりしています。
その国分寺跡に建ったのが、真言宗の蓮行寺。戦国時代末から江戸時代初めに日蓮宗に改宗して、さらに伊豆国分寺跡に比定されたことから、昭和38年に伊豆国分寺と改称したのです。
つまり、「国分寺跡と判明したから国分寺」なのです。
国分寺本堂の裏に回ると巨大な礎石が
しかし、これでは、国分寺だったという証明になりません。
寺の玄関に「聖武天皇詔建之霊域」という碑とともに、国指定史跡「伊豆国分寺塔跡」の表示が。
実は、昭和31年に考古学者・軽部慈恩(かるべじおん)氏の調査により、国分寺本堂の後ろから8個の礎石と基壇が発掘され、伊豆国分寺はその寺域と伽藍が推定されているのです。
軽部慈恩氏は山形県西村山郡醍醐村慈恩寺(現・寒河江市慈恩寺)出身で、修禅寺で修業を積んだ考古学者。早稲田卒業後に韓国で20年ほど暮らし、百済国の研究に没頭しています。
第二次大戦後、夫人の故郷である三島に住み、伊豆国分寺跡、市ヶ原廃寺、千枚原遺跡の発掘調査を手がけたのです。
現存する凝灰岩の巨大な礎石の中央には穴が空いています。これが柱の突端を突っ込んだであろうほぞ穴。
基壇は一辺70mという大規模なものでここに高さ60mの七重塔が建っていたと推測されています。
発掘調査では、南門から中門、金堂、講堂が一列に並び、金堂に続く回廊の外に七重塔がある東大寺式伽藍配置であることも判明しています。
塔は南門から中門に至る参道の西に位置していましたから、伊豆箱根鉄道駿豆線がちょうど中門と金堂の間を斜めに横切るかたちになっています。
中心となる金堂があったのは三島広小路の中華「高京」や居酒屋「林檎屋」の南側一帯となります。
北東の隅は泉町の本覚寺あたりですから、いかに広大だったのかがわかります。
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