東日本の古墳文化は、古墳文化自体の到達が遅れた陸奥(東北)では岩手県北上市の江釣子古墳群(えづりここふんぐん)など8世紀に築かれた円墳もありますが、ヤマト王権から律令国家態勢へと組み込まれた関東では、7世紀後半に築かれた蛇穴山古墳(じゃけつざんこふん)が最後です。
古墳時代終末期に寺院とともに築かれた方墳
蛇穴山古墳は、群馬県前橋市の総社地区にある総社古墳群の1基。
蛇穴山古墳が築かれたのは、645年(皇極天皇4年)、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによる政変、大化の改新以降、7世紀後半(古墳時代終末期)と推測されます。
大宝元年(701年)、大宝律令が完成し、豪族による土地の私物化が廃止され、公地公民制を実施、戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える(班田収授の法)など、中央集権国家としての歩みが始まります。
大化2年(646年)には薄葬令(はくそうれい)も出され、巨大な古墳の造営が禁じられたので、畿内政権の勢力下では、以降に築かれる古墳はまさに例外的な存在ということに。
畿内では8世紀に被葬者が皇子など皇族と見られる古墳も築かれていますが、関東では、薄葬令以降に築かれた古墳は数少なくなっています。
蛇穴山古墳は、一辺44m・高さ5mの方墳。
蛇穴山古墳が築かれたのは、天武天皇が唐との国交樹立を目指し、唐に真似た条坊制の都、藤原京が築かれた前後と推測されます。
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)から藤原京への遷都は、694年(持統天皇8年)なので、まさに律令制への幕開け時代、関東に最後となる古墳が築かれたことになります。
古墳時代後期、総社古墳群では3代にわたってヤマト王権にも負けない巨大な方墳が築かれましたが、その最後を飾るのが、終末期に築かれた蛇穴山古墳で、同時代にはすでに近くに古代寺院・山王廃寺(さんのうはいじ/前橋市総社町=上毛野氏の氏寺と推測)も創建されていますが、それを建てた人物はまさにこの古墳群の被葬者だと推測できます。
石室には漆喰が塗られるという豪華な空間です。
律令制が始まった後の上野国の国府がどこにあったのかは定かでありませんが、前橋市元総社町の
元総社小学校、宮鍋神社周辺は有力な候補地で、元総社小学校校庭から奈良時代の建物跡、宮鍋神社の南側で版築(はんちく)で建物の基礎が造られた遺構が見つかっています。
仏教伝来後、寺院建築と並行して古墳を築いた上毛野(かみつけの=古代の群馬県)の盟主ということがわかります。
資料で確認できる上野国司は、和銅元年(708年)、田口益人(たぐち の ますひと)が上野守に任命されたのが最初で、和銅3年(710年)に 平城京遷都の時代にはすでに律令体制に組み込まれていたことがわかります。
画像協力/前橋観光コンベンション協会
関東で最後に築かれた古墳は、蛇穴山古墳 | |
所在地 | 群馬県前橋市総社町総社1606 |
関連HP | 前橋観光コンベンション協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR群馬総社駅から徒歩20分 |
ドライブで | 関越自動車道前橋ICから約5km |
駐車場 | あり/無料 |
問い合わせ | 前橋市文化財保護課 TEL:027-280-6511 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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