長崎の鼻(長崎鼻台場)

長崎の鼻(長崎鼻台場)

高松市の屋島最北端、瀬戸内海に突き出した岬が長崎の鼻。テーブル状になった典型的なメサ地形の屋島は、古代に屋嶋城(やしまのき)が築かれ、源平合戦では平家の水軍の拠点となりました。つまり瀬戸内の制海権を確保するための重要な地で、幕末には高松藩の台場が築かれています。

幕末、屋島北端に築かれた瀬戸内海防備の台場

長崎の鼻(長崎鼻台場)

嘉永6年(1853年)のペリー以来、外国船の監視と防備の必要性が高まり、讃岐国でも、幕末の文久3年(1863年)、幕府の命を受けて11代高松藩主(最後の藩主)・松平頼聰(まつだいらよりとし=将軍・徳川慶喜とは従兄弟)が瀬戸内と高松湊の防備のため、長崎の鼻に砲台を築いています。

幕府は、高松藩に対して藩内の海防を強化するため、将軍家茂の京上洛の際にも警備を免じています。
藤川三渓の設計で、海に向かって3段の構えで、上段は、守備兵の屯所、中、下段には大砲が備えられていました。

現在、砲台の上段部分が駐車場になっており、中段、下段の砲台部分へは下ることに。
長崎鼻台場に備えられた大砲は、二十六斤砲と十二斤砲が合計6門でした。

高松藩が考えた外国船監視の狼煙通信

長崎の鼻(長崎鼻台場)

高松藩はもともと瀬戸内海の監視は重視し、遠見番所(外国船の監視所)、外国船の発見情報を藩や領内の村に伝達するための烽火台(ほうかだい=狼煙場/のろしば)などを蕪越、馬歯、鎌野、番之浦、長崎鼻、乃生、宇多津などに築いていました。

長崎鼻手前の木里神社社殿背後の森が長崎鼻狼煙場跡で、1基だけ狼煙筒が現存しています。

大砲を備えた台場も、長崎鼻以外に、馬宿台場、引田台場、小磯北山台場、鵜部山台場、大串山台場、鎌野台場、新在鼻台場、乃生台場、林田台場、御供所台場(ごぶしょだいば)、宇多津台場が築かれています。

そのうち長崎鼻台場、引田台場、新在鼻台場は拠点となる台場です。

外国船の到来を見張りが発見すれば、遠見番は狼煙(のろし)で合図。
村々の寺院の早鐘で速やかに受け継いで城下に連絡するシステムとなっていました。

長崎の鼻(長崎鼻台場)
長崎の鼻(長崎鼻台場)から沖ゆくフェリーを眺望
長崎の鼻(長崎鼻台場)
名称 長崎の鼻(長崎鼻台場)/ながさきのはな(ながさきばなだいば)
所在地 香川県高松市屋島西町
電車・バスで JR屋島駅からことでんバス屋島山上行きで18分(ことでん屋島駅からは10分)、終点下車、徒歩1時間
ドライブで 高松自動車道高松中央ICから約10km
駐車場 3台/無料
問い合わせ 高松市観光交流課 TEL:087-839-2416
備考 海岸道路は通行止めの可能性があるため要確認
高松市道路管理課 TEL:087-839-2515
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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