安井金比羅宮

安井金比羅宮

京都府京都市東山区下弁天町、祇園甲部歌舞練場の南側に鎮座するのが、安井金比羅宮。悪縁を切り、良縁を結ぶ神社として全国的に名高い社で、主祭神・崇徳上皇が、配流先の讃岐の金毘羅大権現で一切の欲を断ち切って参籠したことから、断ち物の祈願所(縁切り)として信仰されてきました。

「安井の金比羅さん」は縁切り、縁結びにご利益大!

元禄8年(1695年)、太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院がこの地に移り、鎮守として四国の象頭山から金毘羅大権現を勧請し、崇徳上皇とともに祀ったのが始まり。
以来、「安井の金比羅さん」として親しまれるようになりました。
明治の神仏分離、廃仏毀釈で蓮華光院は配され、安井神社となり、後に安井金比羅宮に改称しています。

鳥羽法皇が病に倒れた後、後白河天皇と崇徳上皇が対立(保元の乱=武士の台頭を顕著にした皇室の権力闘争)、崇徳上皇はこの権力闘争に敗れて、讃岐国(現・香川県)に配流され、8年後の長寛2年(1164年)、配流先で没しています。

配流先では仏教に深く帰依して極楽往生を願い、長寛元年(1163年)、すべての縁を断ち切って象頭山松尾寺境内の古籠所に参籠しています。

後に、崇徳上皇のイメージは怨霊となったといわれ(菅原道真。平将門と並ぶ「日本三大怨霊」とも)、後白河院(後白河天皇)も怨霊鎮魂のため崇徳上皇に崇徳院の院号を与えていますが、配流先の歌「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)からも、寂しさは感じられますが、怨念というのは後世の作だと推測できます。

蓮華光院がこの地に移る以前は、奈良時代(7世紀)に藤原鎌足が創建した藤寺がこの地に建ち、崇徳上皇は藤寺の藤を愛でるとともに、この地に寵愛する阿波内侍を住まわせ、度々通ったと伝わっています。
建治年間(1275年〜1277年)、崇徳上皇を祀る光明院観勝寺がこの地に建てられたのは、全国に菅原道真を祀る社が建立されたのと同様に、怨念を恐れてのこと。
光明院観勝寺は応仁の乱で荒廃しましたが、蓮華光院がこの地に移り、安井金刀比羅宮を創建する際にも、崇徳上皇を祭神に祀り、現在に至っているのです。
江戸時代後期刊行の『都名所図会』にも安井光明院観勝寺として「崇徳帝・金毘羅は一体にして」、「利生霊験いちじるし」と記されています。

その後、江戸時代に金毘羅講が組織され、象頭山金毘羅大権現への参拝がブームとなったことから、「安井の金比羅さん」も一躍注目される存在になりました。

金比羅は10日が縁日で、1月10日は『初金比羅』、12月10日が『終い金比羅祭』となっています。

縁切り縁結び碑に願掛けを

安井金比羅宮

境内にある高さ1.5m、幅3mの絵馬の形をした巨石が、縁切り縁結び碑(いし)で、さまざまな願いが記された形代(かたしろ)が貼られて、ベースの石を隠しています。

願掛けの方法は、まず本殿に参拝。
次に形代に切りたい縁、結びたい縁などの願い事を記し、形代を手にして願い事を念じながら碑の表から裏へ穴をくぐります。
これでまず悪縁を切り、次に裏から表へくぐって良縁を結びます。
そして最後に形代を貼り、成就を願います。

形代は碑の横の台にあり、賽銭箱に志納で受け取ることができるため、本殿への参拝、縁切り縁結び碑での祈願は終日可能。

安井金比羅宮
名称 安井金比羅宮/やすいこんぴらぐう
所在地 京都府京都市東山区下弁天町70
関連HP 安井金比羅宮公式ホームページ
電車・バスで 京阪本線祇園四条駅から徒歩10分、阪急京都線河原町駅から徒歩15分
ドライブで 名神高速道路京都東ICから約7km
問い合わせ 安井金比羅宮 TEL:075-561-5127/FAX:075-532-2036
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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