北九州が一大工業地帯として発展し、日本が近代化を成し遂げたのは、筑豊炭田の石炭産業があったから。筑豊炭田の活況を背景に、貝島炭鉱が大正14年の輸入したドイツ・コッペル社(Orenstein & Koppel)製の蒸気機関車が、貝島炭鉱32号で、「筑豊炭田の生き証人」として福岡県直方市の「直方市石炭記念館」で屋外展示されています。
昭和51年まで貝島炭鉱〜宮田駅の輸送に活躍
明治に入ってから筑豊炭田の開発は急速に進み、生産量は全国石炭の60%以上を占めたこともありました。
筑豊炭田の御三家のひとつ、「筑豊の石炭王」と称された貝島太助(かいじまたすけ)が、明治18年に鞍手郡上大隈村(現・福岡県宮若市上大隈)に創業したのが貝島炭鉱。
当時の炭鉱には線路幅の狭い軌間のトロッコ(軽便鉄道)が活躍していましたが、貝島炭鉱では、それに加えて、国有鉄道(現・JR)と同じ線路幅となる軌間1067mm(3フィート6インチ)専用線18.6kmが敷設され、主要炭坑と国鉄宮田駅を結んでSLが貨車、客車を牽引し、石炭、充填用の土砂、資材、炭鉱労働者を輸送していました。
大正14年当時は国産の蒸気機関車もすでに量産されていましたが、貝島炭鉱ではドイツ、コッペル社(オーレンシュタイン・ウント・コッペル)から2両(31号、32号)の蒸気機関車をわざわざ取り寄せて使用していました。
貝島専用線内ではアメリカからアメリカン・ロコモティブ(American Locomotive Company )社製のSL3両(21~23号機)を輸入してもいるので、貝島太助が舶来好きという側面があったのかもしれません。
大正時代は、日本各地に軽便鉄道が敷設された時代で、客車や貨車を牽引する蒸気機関車は、ドイツのコッペル社のものが多く使われたこともあり、炭鉱王にとっても身近な存在だったといえるかもしれません。
昭和51年6月、日本国内がロッキード事件で揺れ動き、田中角栄元首相が逮捕される直前に、高度成長を支えた貝島炭鉱は閉山に。
閉山まで貝島炭鉱31号、貝島炭鉱32号は活躍していましたが、現存するのは貝島炭鉱32号のみとなっています。
日本の近代化を支え、筑豊炭田で活躍したドイツ・コッペル社製のSLが現存 | |
名称 | 貝島炭鉱32号/かいじまたんこう32ごう |
所在地 | 福岡県直方市直方692-4 |
場所 | 直方市石炭記念館 |
電車・バスで | JR直方駅から徒歩10分 |
ドライブで | 九州自動車道八幡ICから約7km |
駐車場 | 直方市石炭記念館駐車場(7台/無料) |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag