『前方後円墳集成』、『大和前方後円墳集成』によれば、国内にある前方後円墳の総数は約4700基。ヤマト王権のあった近畿地方3府県(奈良県、大阪府、京都府)は、合計642基。それに対して関東エリアには1579基(国内の34%)もあり、なかでもTOPの千葉県は733基で近畿地方3府県を凌ぐダントツの数となっています。
房総の首長は、海路を通じてヤマト王権と直接的に交流
「ヤマト王権のシンボル」とされる前方後円墳ですが、関東地方では千葉県733基を筆頭に、2位・茨城県455基、3位・群馬県391基と続いています。
ヤマト王権のあった畿内では、奈良県312基、大阪府202基、京都府128基、兵庫県122基で、関東のTOP3に及ばない数です。
西日本でも逆に、福岡県267基、鳥取県252基、宮崎県165基と遠く離れた九州や山陰で前方後円墳が築かれています。
200mを超える「大王墓」ともいえるような巨大な前方後円墳は、東日本では群馬県太田市の天神山古墳(墳丘長210m)の1基だけですが、数的には畿内を圧倒しています。
なぜ、東日本で前方後円墳が数多く造られたのでしょう。
ヒントは、その時期と規模にあります。
まずヤマト王権のあった畿内では100m以上の巨大な古墳の占める割合が多く、さらに古墳時代の前期(3世紀後半〜4世紀)に数多く築かれていること(墳丘長190m以上の巨大古墳も18基築かれています)。
対して九州などの西国では、前期〜中期(5世紀)、関東などの東国では中期〜後期(6世紀〜7世紀)、とくに古墳時代終末期(律令制の始まった頃)を含む後期に集中的に築かれています。
ヤマト王権が大王墓を築く際に、地方から大勢の人間を労働力として徴発、周辺の首長は、ヤマト政権に人員を差し出す義務も負っていたと推測でき、地方の首長が墓を築く際には、畿内に派遣されて大王墓を築いた経験を活かして首長墓を築いたと考えられるのです。
こうして前方後円墳は地方に伝搬し、ヤマト王権は、支配に組み込んだ地方の首長に前方後円墳を築くことを認め、関係性を強化していきます。
なかでも房総半島は、ヤマト王権の前進基地的な場所で、黒潮を利用した海路でも畿内とつながり、さらには内陸の毛野国(けのくに/現在の群馬県)、そして軍事的な前線基地でもあった常陸(ひたち)への入口、石材などの供給場所でもあったため、東国の重要な拠点だったといえるのです。
つまり、「海路を通じてヤマト王権と直接的に交流した」のが房総半島の首長ということに。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征伝承で房総が登場するのも、こうしたヤマト王権の権力が東国に及んだ歴史を物語っています。
前方後円墳を築いて、ヤマト王権との関係性をPR
房総半島や現在の東京湾沿いのムラからクニへと発展した場所では、その首長が自らもヤマト王権の大王墓を真似、規模を縮小して前方後円墳を築いたのだと考えられます。
古墳によっては、技術者の流入すら推測できるものもあり、独自の文化を維持しながら、ヤマト王権との密接な関係性も判明しています。
西日本では大型前方後円墳がほとんど造られなくなった6世紀後半にも、房総を含む関東地方では100m級の大型後円墳が造られたのは、ヤマト王権のさらなる東国進出のため、拠点となる房総半島の豪族を懐柔したためと考える研究者もいます。
逆にいえば、千葉県や群馬県などに時期を少しずらして前方後円墳が多数築かれたことは、ヤマト王権が、畿内の大王を中心とした政治的な広域連合だった証しにもなっています。
東国の首長たちは、競って前方後円墳を築いて、ヤマト王権との関係性をPRしたというわけです。
さらにヤマト王権は難波津(現・大阪港)と瀬戸内海の舟運を利用し、大陸との交易で、鉄製の武具や馬具、須恵器の焼成技術、機織技術、さらには文字などを導入、渡来人を抱え込むことで王権を強固にしていき、律令制の開始、天皇制の確立へと中央集権国家に発展していきます。
中央集権化に伴い、地方の首長は、国造(くにのみやつこ=大化の改新以前にあった世襲制の地方官)、さらには郡司へと転身していったのです。
前方後円墳の数が日本一多い県は、意外にも関東に! | |
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