鹿児島県鹿児島市上竜尾町、薩軍兵士2023名が眠る南洲墓地(なんしゅうぼち)の一角にあるのが、西郷隆盛の墓。西郷隆盛を囲むように兵士の墓が並び、西郷隆盛と深い親交があった勝海舟(かつかいしゅう)が亡き友のために詠んだ歌碑が立っています。
明治六年政変で下野し、西南戦争に敗れた西郷隆盛の墓
同郷の大久保利通、そして長州藩出身の木戸孝允(きどたかよし)とともに王政復古に尽力し、維新の三傑に数えられる西郷隆盛。
大久保利通、木戸孝允は、特命全権大使・岩倉具視を団長とする岩倉使節団に随行し(木戸孝允は副使)、欧米を視察したのに対し、留守政府を守ったのが、太政大臣・三条実美を中心とした大隈重信、西郷隆盛、板垣退助、井上馨ら。
留守政府は、学制施行、徴兵令・地租改正の実施、太陽暦の採用などの近代化に着手しますが、西郷隆盛の征韓論を巡り、留守政府と岩倉使節団との対立を生み、西郷隆盛をはじめとする参議の半数と官僚600人が辞職するという明治六年政変にまで発展します。
内治優先を掲げる岩倉具視、そして大久保利通、木戸孝允は、外遊から帰国後、征韓論を掲げる西郷隆盛と対立し、結果、西郷隆盛が下野します。
明治9年3月28日の廃刀令(大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件)への不満もあって10月24日に熊本県士族の神風連の乱、10月27日に福岡県士族の秋月の乱、10月28日に萩の乱が勃発。
明治10年、ついに西南戦争が起こり、9月24日、城山決戦で、西郷隆盛は自害。
享年51(満49歳没)。
当初は、浄光明寺跡(明治初年の廃仏毀釈で鹿児島県内では多くの寺が廃寺になっています)に埋葬されていますが、明治12年に南洲墓地に改葬されています(戒名は、南州寺殿威徳隆盛大居士)。
明治10年2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、賊軍の将となりますが、西郷の死を嘆いた明治天皇の意向もあり、明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦(ゆる)され、正三位(しょうさんみ)を追贈されています。
新政府軍の西郷隆盛と、江戸城無血開城を実現した幕府側・勝海舟が記した碑文は、「ぬれぎぬを干そうともせず 子供らの なすがまにまに 果てしきみかな」です。
自らの意図とは異なるものの、不平士族らによって担がれ、西南戦争の将となって散った西郷隆盛への、勝海舟の想い、そして背景にあった明治の激動の時代と政府内部での権力闘争を読みとることができます。
また江戸城無血開城となり戦火を免れたことを昭和14年に東京市が感謝の意から寄贈した常夜灯も立っていますが、軍事体制の強化とともに、西欧列強によるアジア侵略と同じ道を日本が歩むべきであるという帝国主義スローガンの先鞭の役割を果たしたという側面もあったのです。
西郷隆盛の墓 | |
名称 | 西郷隆盛の墓/さいごうたかもりのはか |
所在地 | 鹿児島県鹿児島市上竜尾町2-1 |
関連HP | 鹿児島観光コンベンション協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR鹿児島中央駅から市営バスで25分、竪馬場通り下車、徒歩5分 |
ドライブで | 九州自動車道鹿児島北ICから約5km |
駐車場 | 50台/無料 |
問い合わせ | 西郷南洲顕彰館 TEL:099-247-1100 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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