「電話交換創始之地」碑

明治23年に電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、4月に東京、6月に横浜の電話交換局が設置。明治23年12月16日、横浜電話交換局と東京電話交換局(現・日本工業倶楽部会館/千代田区丸の内1-4-6)の間で、電話交換業務が開始されました。横浜市中区の日本大通の一画には「電話交換創始之地」碑が立っています。

当初、横浜市の加入者はわずかに42人

当初、横浜電話交換局は4人の男性が電話交換に対応。
東京市の加入者は155人、横浜市の加入者はわずかに42人で、電話所(公衆電話)数16。
市内通話の料金は年間45円の定額制でした。
米1升(1.4kg)が7銭〜8銭の時代ですからかなりの高額です。
初めての電話番号簿「電話加入者人名表」が発行されたのは、明治23年10月9日のこと。
電話機はガワーベル電話機で、明治29年にはデルビル磁石式壁掛電話機が実用化されています。

電話交換の最初は、「おいおい」と呼んでいましたが、技師・大井才太郎の提案で「もしもし」(もしくは申す申す)に変更されたのだとか。

当時の新聞記事を見ると電話加入者が想定以上に少なく「交換開始又延期」とか、「コレラは伝染しないか」などという危惧すら記されています。
それでも『東京横横浜電話加入者人名簿』によれば、明治25年には東京市804人、横浜市210人と急速な増加を示しています。
横浜市の加入者の中で多かったのは生糸貿易関係者。
このことは明治時代の日本の貿易は生糸貿易が支えていた証でもあるのです。

明治33年に、名古屋、京都、神戸、大津、津、大阪の6局と通話が可能に。
一般の家庭へ普及し始めるのは明治38年ころで、明治39年には神奈川県内の加入者はで2000名になっています。

昭和15年に逓信省が立てた「電話交換創始之地」碑
電話の発明と文明開化が同時進行
アレキサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)が有線電話の実用化に成功したのは1876年(明治9年)ですが、翌年の明治10年11月には、いち早く工部省がベル電話会社の日本の代理店・バヴィエル商会を通して電話機を購入。
電信線を利用し横浜の電信分局と工部省の間で通話実験に成功しています。
明治10年12月には工部省と宮内省の間に電話機実用の最初の線が開通しています。
明治22年には、東京~熱海間で公衆用市外通話の商用試験が開始。
神奈川県内では軍事上の理由で、横須賀造船所構内で明治19年に設置されたのが最初の電話機です。
アレキサンダー・グラハム・ベル
「電話交換創始之地」碑
名称 「電話交換創始之地」碑/「でんわこうかんそうしのち」ひ
所在地 神奈川県横浜市中区日本大通5-2
電車・バスで 横浜高速鉄道みなとみらい線日本大通り駅から徒歩3分。または、JR・横浜市営地下鉄関内駅から徒歩10分
ドライブで 首都高速横羽線横浜公園ランプから約900mで市営日本大通り地下駐車場
駐車場 市営日本大通り地下駐車場(200台/有料)
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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