知られざる奈良時代の都・恭仁宮跡とは!?

恭仁宮跡

京都府木津川市にある恭仁宮跡(くにきゅうせき)が、「遺跡の国宝」とも称される国の特別史跡に(2025年12月19日、文化審議会が特別史跡への指定を答申)。藤原宮跡、平城宮跡に次ぐ3件目の宮都跡の特別史跡指定ですが、実は恭仁宮跡、「幻の都」ともいわれ、これまでほとんど知る人はありませんでした。

どうして遷都が必要だった!?

恭仁宮跡
恭仁宮・大極殿跡

聖武天皇は、奈良の平城京から山背国(山城国/現・京都府)への遷都を考えますが、その根底には仏教勢力の政治への影響力を排除しようと考えたともいわれています。
当時の僧侶は国家公務員的な存在で、「鎮護国家」を祈願し、後に南都六宗(国家の庇護を受けて仏教の研究を行なう6宗派)といわれる繁栄をみせていました。

聖武天皇は、天平12年(740年)、宗教を排除した天皇中心の親政の実現、物流の効率化などを目的に、山背国相楽郡に都を遷します。
現在の京都府木津川市加茂町瓶原(みかのはら)で、ときの右大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の本拠地です。
当時、国内には天然痘が大流行し、権力を支えた藤原四兄弟(藤原不比等の息子4人)も病没、さらに四兄弟のうち藤原宇合(ふじわらのうまかい)の息子・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が太宰府で反乱を起こすなど、権力基盤が緩んでいたのです。

3年ほどで遷都したため、「知られざる幻の都」に

恭仁宮跡
恭仁宮大極殿の跡は、山背国分寺金堂跡でもある

こうした背景から、聖武天皇は大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)へと遷都を決断。
都の正殿となる大極殿(だいごくでん)も移転します。
条里制の都の建設が進みますが、天平15年(743年)、完成を見ずして聖武天皇は近江国・紫香楽宮に移り、天平14年(742年)、近江国・紫香楽宮に遷都、さらに744年(天平16年)、今度は現在の大阪である難波京に遷都、そして745年(天平17年)、再び平城京に都を戻すと、目まぐるしく都を遷しています。

こうしたことから、わずか3年ほどの都が恭仁宮(くにのみや)ということに。
恭仁宮大極殿は、そのまま山背国分寺に転用され、大極殿跡は山背国分寺金堂跡ということに。
恭仁宮跡は、南北750m、東西560mの長方形で、平城宮の3分の1ほどで、都としては小規模なもの。
当初から暫定的な都と考えていたのかもしれません。

国の特別史跡となるのは、長年の発掘調査で古代の都の様子が判明したから。
京都府教育委員会は、聖武天皇だけでなく先代の女帝・元正太上(げんしょうだいじょう)天皇も暮らしていたと推測、「ふたつの内裏」があり、協力して統治していたのではないかと考えています。
「知られざる幻の都」ながら、国分寺建立の詔(みことのり)、墾田永年私財法は、年代的にはこの都で生まれたもの。

近くには五重塔が国宝の海住山寺(かいじゅうせんじ)もあるので、時間があれば寄り道をおすすめ。

恭仁宮跡
発掘調査で出土した遺物
知られざる奈良時代の都・恭仁宮跡とは!?
名称 恭仁京大極殿跡/くにきょうだいごくでんあと
所在地 京都府木津川市加茂町例幣中切
電車・バスで JR大和路線加茂駅から徒歩30分。タクシーで10分
ドライブで 京奈和自動車道木津ICから約8km
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

恭仁京大極殿跡

京都には平安京以前に、恭仁京(くにきょう)、長岡京が置かれていますが、最初に配されたのが聖武天皇時代の恭仁京です。現在の木津川市加茂で、大極殿の跡地など一帯は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」として国の史跡となっています。恭仁京は都の完成をみずし

海住山寺

海住山寺

京都府木津川市加茂町、三上山(海住山)の中腹に立つ古刹が海住山寺(かいじゅうせんじ)。天平7年(735年)、聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願で、東大寺初代別当の良辨(ろうべん)僧正が一堂を建て、十一面観世音菩薩を安置したのが始まり。五重塔

海住山寺・五重塔

海住山寺・五重塔

京都府木津川市加茂町、聖武天皇の開いた恭仁京(くにきょう)があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)中腹に建つ海住山寺(かいじゅうせんじ)。建保2年(1214年)、貞慶建立の五重塔は国宝です。塔高は17.7mで、初層の屋根の下に裳

よく読まれている記事

こちらもどうぞ