平安遷都の際、非業の死を遂げた早良親王(さわらしんのう=光仁天皇の皇子)の霊を鎮めるため、桓武天皇によって造営されたもの。正式名は御霊神社ですが、御所南東にある下御霊神社に対して、北に位置するため上御霊神社と呼ばれています。のちに皇室の産土神(うぶすながみ)となり、皇子誕生の際に参拝する伝統が幕末まで続きました。
鳥居の前には「応仁の乱勃発地」碑が立つ
御霊信仰(ごりょうしんこう)は、天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり、非業の死を遂げた人の怨霊(おんりょう)の仕業としてこれを鎮めるために御霊として祀る信仰。
早良親王は、造長岡宮使・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺に関わったとして、乙訓寺に幽閉。
無実を訴えて断食し、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死しています。
長岡京遷都後間もない、延暦4年(785年)9月23日夜、藤原種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日死去。
事件直前の8月28日に死去した大伴家持が首謀者とされ、早良親王が関与したのかも定かでありません。
長岡京から平安京へ、短期間のうちに遷都した背景には、この事件があったといわれ、京に早良親王の霊を鎮める神社の創建は必須だったのかもしれません。
現在の祭神は、早良親王のほか、政争に巻き込まれて憤死した井上大皇后(光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、橘大夫(橘逸勢)ら8柱。
悪疫退散の御霊会も催され、国家民衆の守護神として、京の御霊信仰の中心地として繁栄しました。
松尾芭蕉は元禄3年(1690年)12月に参拝し、「半日は神を友にや年忘れ」の句を奉納しています。
芭蕉はこの年、義仲庵(現・大津市の義仲寺)で越年しています。
見事な本殿は、享保18年(1733年)に寄進された内裏賢所御殿を昭和45年に復原したものです。
南門(四脚門)は、伏見城の四脚門を移築したものと伝えられています。
境内は『暴れん坊将軍』、『長七郎江戸日記』、『御家人斬九郎』、『銭形平次』、『水戸黄門』、『鬼平犯科帳』、『雲霧仁左衛門』など時代劇のロケに使われることも多い、ロケの神社として有名。
また、上御霊神社は、応仁の乱の緒戦となった御霊合戦が勃発した地。
上御霊神社鳥居前には「応仁の乱勃発地」の石碑が立っています。
上御霊神社 | |
名称 | 上御霊神社/かみごりょうじんじゃうじんじゃ Kamigoryo-jinja Shrine |
所在地 | 京都府京都市上京区上御霊前烏丸東入上御霊竪町4 |
電車・バスで | 地下鉄烏丸線鞍馬口駅から徒歩5分 |
ドライブで | 名神高速道路京都南ICから約11km |
駐車場 | 境内の参拝者専用駐車場(10台/無料)を利用 |
問い合わせ | 上御霊神社 TEL:075-441-2260/FAX:075-441-6066 |
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