臨済宗建仁寺派の総本山が建仁寺(けんにんじ)。1202(建仁2)年、源頼家の保護を受けた栄西(えいさい)が開山。足利義満が京都五山制を定めたのち、その第三位に列せられています。応仁の乱後に荒廃しますが、1586年(天正14)頃、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が再興。京都最初の禅寺で、美しい庭などが残されています。
祇園にある禅宗の大寺は、中国の名刹がモデル
京都最古の禅寺ですが、創建時は、天台宗、真言宗の力が強かったことを背景に、真言と止観の二院を構え、天台・密教・禅の三宗兼学の道場として開かれました。
1259(正元元)年、宋の禅僧で鎌倉に建長寺を開いた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺して、純粋な禅寺となっています。
室町時代には京都五山三位として栄え、応仁の乱の荒廃からも復興し、江戸時代には徳川幕府の保護の元で堂宇が整備されています。
明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈の荒波で境内は半分ほどに縮小されていますが、それでも往時の雰囲気を十分に伝えています。
宋の百丈山(現・中国江西省奉新県)の殿堂を真似て建てた伽藍(仏殿のないことにも注目)が、整然と南北一列に並び、左右に14の塔頭が建ち並ぶ建仁寺。
禅寺特有の凛(りん)とした空気が訪れる参詣者を包み込みます。
方丈前庭に、「〇△□之庭」、「潮音庭」と名園が揃う
鎌倉後期の禅宗総門である勅使門(ちょくしもん)、広島の安国寺から移築された室町後期の方丈は、国の重要文化財に指定。
方丈の前庭が枯山水の「大雄苑」(だいおうえん)で、西南の角に織田有楽斉が建てた織田信長供養塔(7層の石塔)が立っています。
昭和9年の室戸台風で方丈が倒壊。
6年後に再建されますが、その時に「植熊」こと加藤熊吉が作庭したのが「大雄苑」です。
広縁(ひろえん)に座って、じっくりと鑑賞することができます。
方丈と小書院の間の中庭が「〇△□之庭」(〇は水、△は火、□は地面を表現)。
さらの小書院の北側の庭が「潮音庭」です。
方丈横に庭にある茶室「東陽坊」は、豊臣秀吉が催した北野大茶会の際、千利休の高弟で真如堂の東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)が好んだと伝えられる茶室(北野大茶会の副席)です。
「望闕楼」(ぼうけつろう)の呼び名がある三門は、浜名郡雄踏町(現・浜松市西区雄踏町山崎)の安寧寺から大正12年に移築したもので江戸時代末期の築。
1765(明和2)年建立の法堂(はっとう)の天井には、平成14年に創建800年を記念して『双龍の絵』(小泉淳作作)が描かれています。
俵屋宗達作の『風神雷神図』は国宝で、オリジナルは保存のため京都国立博物館に寄託。
レプリカが常設展示されています。
境内にある京都ゑびす神社は、もともとは建仁寺の鎮守社。
8月7日〜10日の『六道詣り』で知られる六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、建仁寺の塔頭(たっちゅう=子院)。
坐禅と法話の会『千光会』が毎月第2日曜8:00〜行なわれており、無料で参加ができます(予約も不要)。
20分の坐禅を2回した後にお経を唱和。最後に管長の法話という流れ。
管長の法話を聞くまたとない機会にもなっているのです。
安国寺(現・広島市東区牛田新町の不動院)で出家したので、安国寺の名があります。
建仁寺方丈を建立し、東福寺224世住持として東福寺の再建に力を注ぎますが、関ヶ原の合戦で西軍に加味し、1600(慶長5)年、六条河原で斬首となっています。
その墓(首塚)は、建仁寺の方丈裏に建立されています。
秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも小早川隆景率いる六番隊として渡海し、全羅道の攻略を担当するなど、武将としての活躍もあり、関ヶ原の戦いにも騎馬700、足軽3000という部隊で陣取っています。
建仁寺 3つのチェックポイント
京都五山第三位という名刹
栄西が京都に最初に開いた京都最古の禅寺
見事な枯山水のある方丈に拝観
建仁寺 | |
名称 | 建仁寺/けんにんじ Kenninji Temple |
所在地 | 京都府京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町584 |
関連HP | 建仁寺公式ホームページ |
電車・バスで | JR京都駅から市バスで19分、東山安井下車、徒歩5分で八坂通側にある勅使門もしくは花見小路側にある北門。または京阪本線四条駅から徒歩5分で大和大路通側の西門、徒歩10分で八坂通側にある勅使門 |
ドライブで | 名神高速道路京都東ICから約7.5km |
駐車場 | 建仁寺駐車場(45台/有料、本堂拝観者には1時間無料駐車券を発行) |
問い合わせ | 建仁寺 TEL:075-561-6363 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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