常照寺

常照寺

京都府京都市北区、洛北にある吉野太夫(よしのたゆう/2代目)ゆかりの寺(日蓮宗)が常照寺。常照寺には吉野太夫寄進の朱塗りの山門(吉野門)と、吉野太夫の墓が残されており、授与品にも、吉野太夫が描かれたオリジナルの脂とり紙があります。

才色兼備の名伎・吉野太夫ゆかりの寺

常照寺
吉野太夫寄進の吉野門

吉野太夫(本名・徳子)は慶長11年(1606年)、東山の方広寺近くの生まれ。
父・松田武右衛門は西国の武士でしたが、幼少時に死別し、六条三筋の遊廓に預けられ、14歳で太夫の地位につき、才色兼備の吉野太夫は、「寛永三名妓」(吉野太夫、江戸・吉原の初代・高尾太夫、京の島原および大坂の新町の初代・夕霧太夫)、さらには「天下随一希代の太夫」と謳われ、その名声は遠く明国にまで届くほどだったとか(李湘山が、日本の吉野太夫を夢に見たという詩「日本曾聞芳野名 夢中髣髴覺猶驚 清容未見恨無極 空向海東數鳳行」)。


日蓮宗の僧・日乾(にっけん)に帰依していましたが、その日乾が元和2年(1616年)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の招きにより洛北の鷹峯(たかがみね)に常照寺を創建、僧侶の学問所・鷹峰檀林(たかがみねだんりん=日蓮宗関西六檀林のひとつ)としたのです(明治5年、檀林制度は廃止)。

本阿弥光悦は、元和元年(1615年)、京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)の仲介で、徳川家康から当時は辻斬り追い剥ぎの出没するような鷹峯の地(『本阿弥行状記』)を拝領し(屋敷の跡が、現在の光悦寺)、文化人や職人、芸術家たちを集めて、光悦村(こうえつむら)と呼ばれる芸術村を開いています。
大坂夏の陣で、豊臣方に内通したという疑いで、本阿弥光悦の茶道の師匠、古田織部が切腹しているので、京の片隅の追いやったともいわれていますが、定かでありません。

芸に秀でた吉野太夫が23歳の時、光悦村の常照寺に、朱塗りの山門(現存する吉野門)を寄進したという、いかにも京の風流人の粋(いき)を感じる話になっています。

境内にある帯塚では、毎年5月に帯供養が行なわれる。

吉野太夫は、寛永20年8月25日(1643年10月7日)、38歳の若さで没。
日乾上人から授かった戒名は、「唱玄院妙蓮日性信女」で、「唱玄院」の院号から吉野太夫が「南無妙法蓮華経」という題目をよく唱えたことがわかります。

参道などには吉野桜(山桜)など100本が植栽され、京都市街から1週間ほど遅れて開花しています。
毎年4月第2日曜には『吉野太夫花供養』が行なわれ、島原太夫による「太夫道中」も実施。

また、観光タクシーの運転手が「まだまだ紅葉の穴場」という常照寺の紅葉の見頃は例年11月中旬~11月下旬頃。
悟りの窓・迷いの窓で名高い源光庵、光悦寺とともに紅葉めぐりを楽しむことができます。
混雑するのを避けたい人は、11月上旬〜11月中旬頃の「薄もみじ」の時季がおすすめです。

常照寺
常照寺
名称 常照寺/じょうしょうじ
所在地 京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町1
関連HP 常照寺公式ホームページ
電車・バスで 地下鉄烏丸線北大路駅から市バスで13分、鷹峯源光庵前下車、徒歩2分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約13km
駐車場 15台/志納
問い合わせ 常照寺 TEL:075-492-6775
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
源光庵

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京都市北区鷹峯(たかがみね)にある、室町時代創建の曹洞宗の寺、源光庵(げんこうあん)。正式名は、鷹峰山寶樹林源光庵で、本尊は釈迦如来。本堂にある2つの窓が特徴的で、ひとつは「悟りの窓」、もう一方は「迷いの窓」と呼ばれ、哲学的なふたつの窓は被

光悦寺

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元和元年(1615年)に「寛永の三筆」の一人で陶芸家でもある本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が徳川家康から拝領した地に草庵を結び、法華題目堂を建てたのが起こり。光悦はこの地に一族と移り住み、工匠を集めて「芸術の里」ともいえる集落「光悦村」を生

 

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