京都府福知山市にある福知山城は、江戸時代には福知山藩の藩庁だった場所で、「続日本100名城」に選定。天正8年(1580年)頃、在地豪族・横山氏の砦であった横山城を、丹波平定を行なった戦国武将・明智光秀が改修し、福智山城と改めたのが始まり。築城にあたり、明智光秀は減税を行なったので今も地元では人気があります。
明智光秀ゆかりの城で福知山の歴史を学ぶ
本能寺の変の際には、明智光秀の重臣・明智秀満(あけちひでみつ=福知山城の城代)の父が福智山城留守居役となっていましたが、豊臣秀吉軍によって捕縛され、京・粟田口で処刑されています。
明智光秀の在城期間はわずかに3年ほどとなっています。
関ヶ原合戦直後の慶長5年(1600年)には家康の養女・連姫(蓮姫)を娶った有馬豊氏(ありまとようじ)が入城し、城の名を福知山城に改め、城割、町割を行なっています。
江戸時代半ば以降は譜代大名・朽木家が藩主となって寺社奉行などを務めています。
明治維新で廃城となりましたが、市民の瓦一枚運動などの熱意によって、昭和61年に天守閣が復元。
3層4階の天守は、有馬氏時代の初期の天守の外観を復元したもの。
館内は歴代城主の資料や福知山の歴史を紹介する福知山市郷土資料館となっています。
野面積み、乱石積み、穴太積みの石垣は築城当時の面影を残しています。
銅門脇番所と「豊磐の井」は往時のものが現存!
本丸内にある「豊磐の井」(とよいわのい)は、深さ50m。
明智光秀が城主だった時代に掘られたものといい、今も海抜30m地点までは水があり城郭内の湛水井としては日本一の深井戸といわれています。
また現存する唯一の建築物である銅門脇番所(あかがねわきばんしょ)は二の丸の登城口にあったものを本丸跡に移築。
城跡一帯は福知山城公園になっていて、公園入口には地元出身の日本画家・佐藤太清とその門下生の作品を展示する隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館も建っています。
また、城の周辺には江戸時代の都市計画に基づく城下町の町割がほぼそのままに現存。
残念ながら武家屋敷など藩政時代を偲ぶものはありませんが、明治時代から昭和初期の町家の家並みが残り、町全体が「町家の博物館」となっているのです。
福知山城 3つのチェックポイント
『麒麟がくる』主人公・明智光秀の居城
復元天守と石垣に往時を偲ぶことができる
豊磐の井は城内の井戸としては日本一の深さ
福知山城 | |
名称 | 福知山城/ふくちやまじょう |
所在地 | 京都府福知山市内記1-5 |
関連HP | 福知山城公式ホームページ |
電車・バスで | JR福知山駅から徒歩15分 |
ドライブで | 舞鶴自動車道福知山ICから約5.4km |
駐車場 | ゆらのガーデン駐車場(70台/無料) |
問い合わせ | 福知山城 TEL:0773-23-9564 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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