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桂小五郎像

桂小五郎像

京都府京都市中京区一之船入町、ホテルオークラ京都の敷地内、北西側に立つのが、桂小五郎像。ホテルオークラ京都の建つ地は、長州藩京屋敷跡ということで、京都桂ライオンズクラブが結成30年を記念して平成7年3月21日に建立したもので、桂小五郎(木戸孝允)の単身像としては、目下、全国唯一の像です。

ホテルオークラ京都横に立つ桂小五郎(木戸孝允)の単身像

大河ドラマになった西郷隆盛、国葬級の葬儀が行なわれた大久保利通に比べ、やや影の薄い桂小五郎(木戸孝允)。
急進倒幕派に傾く長州藩をまとめ、明治の世を切り開いた立役者のひとりで、西郷隆盛、大久保利通とともに、維新の三傑に数えられています(大隈重信は西郷を嫌ったことから、大久保利通、木戸孝允を「維新の二傑」としています)。

桂小五郎(木戸孝允)は、明治10年5月26日、西南戦争の最中に京都の別邸(現・京都市中京区土手町通竹屋町下ル東側)で没し、京都霊山護国神社に埋葬されています。
維新の三傑のうち、西郷隆盛は西南戦争で戦没、大久保利通は皇居に向かう途中で暗殺されているので、病没とはいえ、畳の上で死を迎えることができたのは木戸孝允が唯一で、激動の時代のリーダーの過酷な運命がよくわかります。

桂小五郎像の制作は、京都の佛師の家に生まれ、日展を主な発表の場とする彫刻家・江里敏明(えりとしあき)。
桂小五郎像のほか、琵琶湖疏水建設の功労者・田辺朔郎(たなべさくろう)像、京都府知事(第3代)時代に琵琶湖疏水を計画した北垣国道(きたがきくにみち)像、萩市の高杉晋作立志像、萩城の毛利輝元像、広島市にある報恩寺の親鸞聖人御幼少之像、京都国体メダルなども手掛けています。

桂小五郎像
名称 桂小五郎像/かつらこごろうぞう
所在地 京都府京都市中京区一之船入町
電車・バスで 京都市営地下鉄京都市役所前駅から徒歩2分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

長州藩京屋敷跡

幕末動乱の京の歴史を語るとき、統幕の中心となった長州藩士・桂小五郎(かつらこごろう=維新の三傑、木戸孝允)と長州藩は欠かせません。二条を少し下がった河原町通沿いに長州藩京屋敷はありましたが現在は「京都ホテルオークラ」の敷地となっており、石碑

桂小五郎・幾松寓居跡

桂小五郎(のちの木戸孝允)は、長州藩士時代、京の花街・三本木の芸妓・幾松と恋仲となり、幕末の動乱期にそのふたりが住んだのが長州藩控屋敷(現・京都市中京区上樵木町)。時に新撰組に追われながら苦難の時代を過ごしています。蛤御門の変のあとには新撰

木戸孝允旧宅

山口県萩市呉服町、江戸屋横丁に面して建つのが木戸孝允旧宅(きどたかよしきゅうたく)。幼少時、向かいの桂家の養子となったため、桂小五郎の名もある木戸孝允。養子に出た直後養母が亡くなり、結局この生家で青春時代を過ごしています。国の史跡。萩城下・

木戸孝允旧邸・達磨堂

長州藩士の桂小五郎(かつらこごろう/維新の三傑のひとり)は、明治維新を迎え、36歳以降は木戸孝允(きどたかよし)と名乗っています。その木戸孝允が構えた京都の邸宅跡は今の京都市職員厚生会「職員会館かもがわ」の一帯。長州藩士で当時の京都府知事・

木戸孝允の墓

京都市東山区、京都霊山護国神社の墓地にあるのが、木戸孝允の墓。西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑に数えられる木戸孝允(桂小五郎)は、京都の自邸で明治10年5月26日に病没(大腸がんの肝臓転移)。維新の三傑のうち、満43歳という若さですが

木戸孝允駒込別邸跡

東京都豊島区駒込1丁目、現在は標石が立つのみとなっていますが、木戸孝允が駒込染井町に明治2年に築いた別邸の跡が、木戸孝允駒込別邸跡(きどたかよしこまごめべっていあと)。西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑に数えられる木戸孝允は、富士見町(

維新の三傑の銅像はどこにある!?

徳川幕府を倒し、明治新政府の樹立に貢献した維新の三傑とは、西郷隆盛(薩摩藩)、大久保利通(薩摩藩)、そして木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎/長州藩)の3人。故郷などに建立される銅像ですが、人気の西郷隆盛は主なものだけでも3ヶ所もあり、大河ド

 

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