桂小五郎・幾松寓居跡

桂小五郎・幾松寓居跡

桂小五郎(のちの木戸孝允)は、長州藩士時代、京の花街・三本木の芸妓・幾松と恋仲となり、幕末の動乱期にそのふたりが住んだのが長州藩控屋敷(現・京都市中京区上樵木町)。時に新撰組に追われながら苦難の時代を過ごしています。蛤御門の変のあとには新撰組に追われて、幾松の機転で助かったこともあるのです。

長州藩控屋敷の一部は高級料亭「幾松」に

長州藩控屋敷だった建物の一部は現存し、高級料亭(料理旅館)「幾松」が営まれています。
併設の「維新庵」では、「桂小五郎御膳」をはじめとする幕末の志士達の名前がついたメニューを味わうことができます。
国の登録有形文化財となった「幾松」の2棟のなかには抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井などが昔のままに残り、新撰組や他の藩の襲撃を受けたときの脱出ルートが確保されている様子が今に伝わっていす。
宿泊や食事をすれば「幾松の間」を見学することも可能。

ちなみに、父は若狭小浜藩士だったという芸妓・幾松は、明治元年、木戸孝允(西郷隆盛、大久保利通と並ぶ維新の三傑)の実家・萩を訪れ、夫人・木戸松子となっています。
木戸孝允が京の別邸で病死(44歳という若さでした)する時にも傍らで看病し、墓はともに霊山墓地に仲良く並んでいます。

桂小五郎・幾松寓居跡
名称 桂小五郎・幾松寓居跡/かつらこごろう・いくまつぐうきょあと
所在地 京都府京都市中京区上樵木町
電車・バスで 地下鉄東西線京都市役所前駅から徒歩3分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約9kmで市営御池駐車場
駐車場 市営御池地下駐車場(1000台/有料)など周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 京都総合観光案内所 TEL:075-343-0548
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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