三重県桑名市多度町、木曽三川の河口部を見渡す多度山(402.8m)の麓に鎮座する伊勢国二之宮が多度大社。正式名は多度神社ですが、一般には多度大社で通っている北勢随一の大社です。社伝では、雄略天皇の御代の創建と伝える古社で、神社の背後の多度山が御神体。
境内には『上げ馬神事』の上げ坂も!
祭神の天津彦根命(あまつひこねのみこと)が、神宮(伊勢神宮)に祀られる天照大御神の子神(男神5柱のうちの1柱)ということで、昔から北伊勢大神宮として「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば 片参り」といわれてきた古社(「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」、「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊をかけねば片参り」という俗謡もあり、伊勢参宮と多賀大社、多度大社、朝熊岳金剛證寺などを組み合わせていたことがわかります)。
天平宝字7年(763年)に満願禅師によって神宮寺が創建され、中世には多度権現として繁栄し、伊勢で興った平家も尊崇しています。
多度大社の鎮座する地は、木曽三川の河口に近い伊勢国の北端で、美濃、尾張に接する東海道の要衝でした(江戸時代には舟運で美濃・大垣とも結ばれています)。
多度山をご神体と崇める信仰(地主神)と、仏教が奈良時代に習合し、多度神宮寺の建立されたのだと推測できます。
天文2年(1533年)の『多度山衆僧記』によれば、70坊、僧侶300余名という大寺院だったことがわかります。
神宮寺、そして社殿や神宝、史料は、元亀2年(1571年)、織田信長の長島一向一揆平定の際の焼き討ちにより焼失しましたが、慶長10年(1605年)、初代桑名藩主・本多忠勝により再建され、藩政時代には桑名藩主の産土神(うぶすながみ=桑名藩の守護神)として尊崇されています。
寛永年間(1624年~1644年)、桑名藩主・松平定行は多度神宮寺跡に遠州の愛宕権現を勧請、さらに同社の別当寺として法雲寺を再興していますが、多度神宮寺の法灯は継承していません。
毎年5月4日~5日に行なわれる『上げ馬神事』は境内の急坂を周辺6地区より選ばれた氏子の若者が騎手となり駆け上がるもので、南北朝時代からの歴史を有する神事。
多度大社には、願いを神に届ける使者の役割を果たすのが白馬という白馬伝説(しろうまでんせつ)が伝わり、『上げ馬神事』は、その年の豊作、凶作を占う神事となっています(上げ坂も境内にあります)。
11月23日の『流鏑馬祭』も盛大で有名。
神馬舎(じんめしゃ)には神様のお使いとして今も神馬が飼育されています(古代には神社に馬を奉納する習慣があり、それが絵馬に代わっています)。
元禄2年(1689年)秋、松尾芭蕉は『奥の細道』を大垣で終え(奥の細道むすびの地)、神宮(伊勢神宮)に向かう途中、美濃の門人・谷木因(たにぼくいん=美濃・大垣の廻船問屋の主人で、美濃俳諧の発展の立役者)とともに多度大社(当時は神仏習合で多度山権現)に詣でています。
その際に詠んだ「宮人よ 我名を 散らせ落葉川」(『笈日記』に収録)の句碑が境内にありますが、この句は、谷木因の「宮守よわが名を散らせ木葉川」を受けてのもの。
拝殿に落書した谷木因の戯句に対して、「右の落書を厭ふの心」との前詞の後に、「宮人よ 我名を 散らせ落葉川」(宮司よ、今拝殿に落書きされたわが名を、落葉もろとも社殿の前の川に掃き散らしてほしいものだ)と詠っているのです。
芭蕉の多度来訪から満80年を経た明治6年10月12日、芭蕉忌に恵方庵富無三が多度弥勒堂横に建立し、供養手向の句宴が盛大に行なわれたもの。
多度大社近くにある宮川清めの池は、多度山権現の参詣者が身を清めた禊(みそぎ)の池です。
ちなみに、伊勢国の国府があった場所は、鈴鹿市広瀬町 ・ 西冨田町にまたがる長者屋敷遺跡(奈良時代中期の政庁・官衙群を発掘)で、伊勢国分寺の跡も鈴鹿市国分町から発掘されています(伊勢国分尼寺の遺構は見つかっていません)。
総社は不詳ですが、三宅神社(鈴鹿市国府町)と推測され、一之宮が椿大神社、二之宮が多度大社です。
多度大社 | |
名称 | 多度大社/たどたいしゃ |
所在地 | 三重県桑名市多度町多度1681 |
関連HP | 多度大社公式ホームページ |
電車・バスで | 近鉄養老線多度駅から三重交通バス美鹿行きで5分、多度大社前下車または多度駅から徒歩15分 |
ドライブで | 東名阪自動車道桑名東ICから約7km |
駐車場 | 100台/無料 |
問い合わせ | 多度大社 TEL:0120-37-5381/FAX:0594-48-5381 |
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